ああ……悲劇の通化暴動事件!
二十四、街の抗戦派
悲しい抗争がそのころから日本人の間で行われ始めた。日本人が日本人を密告するという事態が起きてきたのである。あの男は脱走兵を匿っている。あいつは何万円という金を隠している。そう言って中共軍に訴え出るのである。日系工作員というものまで生まれてきはじめた。中共軍の命を受けて日本人間の密偵を行う仕事である。強要されてなる者もいるし、食うために自ら求めてなった者もいた。
密告政策は中共が結党以来、長い期間をかけて作り上げた粛清政治のエキスでもあった。
中国人同士が、朝鮮人同士が、やはり密告しあっていた。そして中国人が日本人を、朝鮮人が日本人を密告する。恐怖と戦慄の中に市民は叩き込まれた。
密告を受けて投獄されると、もう永久に帰って来ない者もいた。酷い拷問がそこに待っているのだ。電流を通されて半狂乱になった人もいた。
こういう人達は、ほとんどが旧通化市の指導者的実力者だった。関東軍との交渉も多く、諦めきれぬ思いで敗戦を迎え、現になおも往時の勢力をもう一度取り返したいと考えている人達が多かった。
そういう一人に寺田山助という人がいた。彼は愛媛県出身で、土木建築伊予組の通化出張所長を務めていた。第一二五部隊の建設関係でよく藤田参謀長のところへも出入りしていた。義侠心に富み、土建屋らしい豪胆さと、何か得体の知れない大まかなところがある人物だった。年は四十歳ぐらいで、居留民会の代表者でもあり、竜泉区の区長でもあったのだ。
彼の家には元満鉄総裁で大陸科学学院の院長だった大村卓一が匿われていた。どういう縁故があるのかわからないが、この大物を平然と匿うほどの大胆さだから、脱走兵達の面倒もよく見てやっていた。偽装の登録をしてやり、落ち着き先を捜してやるぐらいのことは朝飯前であった。
寺田山助はまた中国人に多くの知己を持っていた。
「頼む!」と一言いえば、彼のところへは何石という木材が即座に中国人から届けられた。そういう不思議な人物は、やがて次第に彼を取り巻く人達を組織化していくのであった。彼こそは街の抗戦派だったのだ。しかもその首領だったのだ。
抗戦派はさらに市内にもいた。脱走して通化市内に潜伏していた、若くて血気盛んな将兵達が、おもむろに一団を形成しつつあった。
元第一二五師団(伊万里師団)の藤田大佐の部下の陸軍少尉佐藤弥太郎を中核とする人達がそれであった。
佐藤少尉と寺田は磁石と鉄のように、互いに吸引し合いながら、密約を進めていく間柄となった。
だがそれは秋も深くなってからのころだ。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11