ああ……悲劇の通化暴動事件!
二十六、ああ……難民哀話
十月、秋は既に深い。通化を取り巻く山々は美しい紅葉に彩られていた。長白山から吹き下ろす風は、もう肌に冷たかった。夜はめっきりと冷え込むのだった。
避難民の間では、日に日に死んでいく者が増えた。八月の暑い盛りに着の身着のままで辿り着いた避難民達は、もうすぐそこまで来ている厳寒期を控えて、不安の色を濃くするばかりだった。
九月、十月には、赤十字病院でも急性伝染病(重症赤痢)、結核、栄養失調症の患者が、職員の懸命の治療の甲斐もなくバタバタと死んでいった。初めは山の手の火葬場において荼毘に付して、近くの郊外にある墓地に埋葬して、墓碑を建てて、読経して丁重に弔っていたが、あまりの死亡者の続出でその経費が底を突いてしまった。しかも極度に治安も悪くなってきたので、とても荼毘はおろか郊外の墓地への埋葬も不可能となった。万策尽き止むなく校庭の一角にあった、防空壕跡に死体を埋葬することにした。それもただ毛布に包んだだけであった。岡野宗光職員が僧侶出身であったので、埋葬時の読経だけは必ず上げていた。
通化における避難民の数は優に八千三百名に上っていた。元からの通化在住者七千百名をはるかに上回る人数であった。奉天や新京へ引き揚げていった者も多かったが、最近では交通は完全に杜絶している。そして行くべき当てもない人だけが、この街で死と直面しながら冬を迎えるのであった。
市内の料亭や旅館、寺院、学校、工場、官舎などが集団の収容所に当てられたが、その全部をあげてもわずかに二千名しか収容することができなかった。残りは居留民会の手で各民家へ割り当てられて、畳一枚につき一人という窮屈な生活が続いていた。
避難民は大半が婦人と子供であったから、たちまち食べることに事欠くようになっていた。さらに病人と死亡者が続出したが、それはほとんど栄養失調による全身衰弱と、感冒による急性肺炎とだった。食べる物もなく、着る物もない暮らしが、そういう哀れな末路へ彼らを導いていったのであった。
多くの哀れな新しいエピソートが、避難民を巡って生まれている。一つ二つ拾って書いてみよう。
……新京から子供二人を連れて逃げて来た女性がいた。
八月の初旬に主人が応召して四平の部隊に入隊していた。九日に最後の面会が許されるというので、八月八日の夜行列車で四平の街にあるその部隊へ、二人の子供の手を引いて面会に行った。
しかし八月九日のソ連軍侵攻のため部隊は急遽前線に出動して行って、その行方が全くわからなくなってしまった。
その後へ行った親子は面会もできず、さらに日ソ開戦で北上の列車もなくなっていた。それから新京の家に帰ろうとしても、新京行きの民間人の乗れる汽車がなくて、自分の家に帰るにも帰れず、母と子供の三人は四平の駅の待合室で途方に暮れていた。
そこでたまたま通化へ帰るというM氏に会った。親切なM氏に聞かれて事情を話したところ、すっかり同情したM氏は、「一応通化へ避難してはどうですか」と勧めたのであった。それではとM氏との同行を頼んで親子は通化にやって来て、M氏の世話で彼の知人の家に同居していたが、八月十五日の敗戦である。そのまま新京にも帰れず、その親子はたちまち生活に窮してしまった。
ある朝の七時半ごろである、。その親子が同居しているM氏の知人の家の夫人が、M氏のところに血相を変えて飛んで来た。
「遺書を置いたまま親子三人が家を出て行った!」と言うのである。その遺書にはこう書かれてあった。
「長い間、いろいろお世話になりました。そのお礼もせぬうちに敗戦となりました。これからの日本人はどうなるのでしょう。いろいろ諭されたこともよくわかりましたが、現在の私達親子は、やはり主人が言い残していったように、日本が万一負けたときは、敵に恥ずかしめられないうちに自殺するように申しておりましたゆえ、私達親子は死んであの世に行きます」
M氏は心当たりを片っ端から訪ねて歩いた。その日の午後三時ごろ、捜し草臥れて市内中央のロータリーまで来ると、後ろから呼ぶ者がある。ハッと振り返って見ると、死にに出かけた親子三人の中の姉娘で、十歳になる子供だった。
「お母さん達はどうした?」と叫ぶと、その女の子はワッと泣き出した。宥めすかして聞いてみると、「あっちの山の中で母ちゃんが、母ちゃんも死ぬから死んでくれと言って、正ちゃんの首を切ったの、痛い! 痛い! と正ちゃんが泣くの、あたしも早く切って父ちゃんのところに連れてって、と言うけど、母ちゃんはもうとても殺せないと言って、正ちゃんを抱いて泣いているの」とたどたどしく言うのであった。
M氏は女の子の手を引くと一目散に駆け出した。四キロ近い玉皇山の裏山まで辿り着くと、親子二人は不幸中の幸いか、付近の親切な満人農家の老夫婦に発見されて助けられていた。六つになる男の子は血に染まっているがまだ大丈夫だった。M氏は飛び込むなり、「奥さんの馬鹿っ!」と思わず大声で叱りつけていた。夫人はおろおろと涙声で、「済みません! 済みません!」とただ泣くばかりだった。
子供は頚部と腹部を剃刀で切られていた。応急の止血処置をして戸板に乗せ、またもや四キロの道を引き返して来る間、「母ちゃんを許して! 母ちゃんを許して!」と夫人は泣き叫び続けていた。子供はやっと助かった。出血は多かったが幸いにも急所は外れていたのだった。
……もう一例は、白城子からの避難民で、生後三ヶ月の男の子を抱えていた、二十歳そこそこの若い母親が、敗戦での精神的なショックと、食べ物も不規則であったので、充分摂れない日が続いて、すっかり母乳が出なくなってしまっていた。育児に経験のない若い母親は、粉ミルクや牛乳もないし、重湯も作れない情況に、なす術を失いすっかり途方に暮れてしまっていた。彼女はただ水ばかりわが子に飲ませ空乳を子供に含ませていた。
幼い子供はたちまち栄養失調になって瀕死の状態に陥った。同行の避難民の老人の世話人が、その親子を赤十字病院へ運び込んで来た。病院で応急治療は施してその場は助かったが、今の生活を続けていたのではまた同じことを繰り返すので、世話人に頼んで子供を親切な満人夫婦に預けて、自分は身を売り生活費を稼いでいた。
ソ連軍の兵隊、中国人、朝鮮人相手との売春であった。その毎日が手当たり次第の相手構わずの激しい売春生活であった。その結果彼女はとうとう劇症の性病(淋病)に感染してしまった。
それでその後は全く働けない身体になってしまっていた。そのため無収入になってしまい、彼女は子供の養育費も自分の生活費さえも、全く稼ぐことができなくなっての失望から、左頚部を剃刀で切って自殺を図った。しかし手元が狂ってその自殺は未遂に終わったが、そのとき既に本人は気が狂ってしまっていた。ただただ、「ボーッ」として虚ろな目であらぬ彼方を見て毎日を暮らしていた。もちろん子供は預けた優しい満人夫婦に養子にくれてやってしまった。
……「今日、なおここに残留孤児が通化に一人いるのだ。その子の名も忘れ果てた、あの狂った産みの母は今日無事に日本へ帰国しているだろうか? またその後あの母子は生きているだろうか?」
と、残留孤児の来日を知ると、私達はそのことが常に気に懸かっているのである。
また赤十字病院で入院治療の甲斐もなく、急性肺炎で幼い子供を死なした若い二人の母親は、その後働き口もないまま、赤十字病院で入院の重症患者の付き添い婦や洗濯婦として働いていた。やがて彼女達二人は元通信兵達と一緒に衛生看護教育を受けて、仮看護婦になって病院で働いていた。その名は安田早苗と太田雅子で元将校婦人であった。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11