【登録 2003/02/08】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

二十七、仲秋の名月


 十月十日、その日は双十節である。偶然にこの日は仲秋名月の夜にも当たっていた。
 月は明るく美しく冴えていた。層々と尾根を積んで国境の彼方へ続く長白山系の山襞までもが、鮮やかに浮き出すほどの月明かりであった。
 その明るい月光の中の通化の街は。その夜はまるで死んだように静まり返っていた。もともと夜は午後八時のサイレンを合図に、夜間通行は厳禁されていたのだが、この夜ほど日本人は恐怖に怯えた夜はなかった。
 それはどこからともなく、満人が通化在住の日本人全部を殺害するという情報が流れていたからだ。まさかありうべきこととは思われなかったが、また同時にありうべきことにも思われた。情報は城内の中国人の間から生まれ、次第に日本人の間へも伝わってきた。
 仲秋節……仲秋節には月餅を食べることが漢民族の慣習である。昔、蒙古のジンギスカンは国を興して他国を征服した。漢民族の国・宋朝をも征服して、蒙古民族の国家、元朝の基礎を創建したのであった。西暦一二六〇年から一三六八年までの元朝時代は、漢民族は蒙古民族に完全に支配されていた。元朝は漢民族の政権転覆の謀議や決起を防ぐために、常時各戸に蒙古人の兵士を同居させて、漢人同士間の連絡をできなくして反逆できないように監視していた。反元朝の漢民族の指導者達は方策をいろいろと考えた結果、決起の日を仲秋節の夜と決定した。その連絡方法は月餅の中に決起の日時と戦い方を書いた紙片を入れて作り、そして街で一斉に売り出したのだった。
 漢民族には仲秋節の夜は必ず月餅を割って食べる習わしがある。その仲秋節の夜、月餅を割って中の紙片を見た漢人達は、同居している蒙古兵を殺して武器を奪い取り、一気に元朝を倒して漢民族の明朝を建国したのである。ちなみに月餅を見ると蒙古人は、「月餅のために我々の祖先が漢人達に殺された!」と、昔の出来事を思い出しておいおい泣くといわれる。
 仲秋節……それは、漢民族が他民族の征服者に対する戦いの勝利の記念日なのだ。
 だから日本人の全員を殺害するという噂も、まんざら根拠のないことではない。おまけにその噂は中共軍の兵隊から出たというまことしやかな噂である。
 日本人達は度重なる中国人の暴徒の襲撃を体験していた。彼らが手に手に獲物を持って、口々に、「東洋鬼子!」(トンヤンクイズ!)、「東洋鬼子!」(トンヤンクイズ!)、「日本鬼子!」(リーベンクイズ!)、「打死、〓!」(ダース、ニー!)(東洋の鬼め。日本の鬼め。お前を、打ち殺してやるぞー!)と叫んで、津波のように押し寄せて来たときの恐怖を、今さらのように生々しく思い出していた。
 中共軍ではまさかそんな無茶な殺害を企てることはあるまい、しかし扇動された満人暴徒ならやるかもしれぬ。恐怖は恐怖を呼び、日本人は明るいうちから表戸を閉め、さらに釘付けにして夜が来るのを待った。恐らく晧々たる満月、「仲秋の名月」を仰ぎ見た日本人は一人もいなかったであろう。
 ところがこの夜、ただ一個所だけ、襲撃に備えて応戦の態勢を取っている日本人達がいたのだった。
 柴田久軍医大尉が院長を務める旧野戦病院、今では赤十字病院となった元の通化高等女学校跡であった。
 柴田久軍医大尉は万一の事態に備えて非常警備編成の命令を下していた。赤十字病院と名が変わっても実質的には旧野戦病院がそのまま引き継がれているのである。自警用としてソ連軍は小銃五挺と小銃弾千五百発を病院に残すことを許していた。
 衛兵達がその小銃を持って警備に当たっていた。その他の職員達は、元の学校の被服庫に残っていた女学生達の訓練用薙刀を取り出して、尖端を削って槍や刀にした。
 患者運搬用トラックの運転手をしていた松尾本二職員は、空き瓶にガソリンと高濃度のアルコールの混合液を詰めて、速成の火焔瓶を作ったのだった。これは実験で炸裂音も相当高く、火焔もまた広範囲に広がり、その威力は充分あった。
 その日は昼間から病院へ市民が嘆願に来た。
「今夜一晩だけ保護して貰いたい!」と言うのである。わずかにただ一個所だけ、旧軍隊組織が残っているこの病院には、屈強の若者もいれば小銃もある。しかしその嘆願も全て断るようにと柴田大尉の命令であった。その断る理由は、
「いまここで民間人を保護すれば、必ず満人暴徒は集中的に病院を襲って来るだろう。そうすれば防御のため、応戦して発砲しなくてはならない。満人を殺せば中共軍は暴徒の彼らに味方して必ず日本人の我々を攻撃して来る。またただならぬ騒ぎに重症患者が不安になりその死期を早める。そして日本人が中国人を殺したという理由を、中共軍が我々日本人を皆殺しにする口実にする。今わずかの武器と人数では中共軍に立ち向かえない。だからこの際は、耐え難きを耐え忍べ!」
 というのが主な理由であった。
 正面入口の営門を警備する、当日の警備分隊の宇佐見晶職員以下の若い熱血漢の職員達は、日本人の皆んなを助けてやりたかった。保護を断られてすごすごと恐怖の街へ帰っていくその避難民達が、たまらなく哀れでかわいそうに思え、何にもしてやれぬ口惜しさで歯噛みをしていた。
 病院の中では全職員は軍靴を履き、巻脚絆(ゲートル)を巻いて、各自それぞれの武器を抱いたまま、耳をそばだてて、さらに目を光らせ、「ジッー」と毛布を被って待機しているのであった。
 暴徒の襲撃に対して反撃できる場所は、通化ではここだけであった。居留民達はこの病院が存在することを、どれだけ心強く頼もしく思っているかもしれないのだ。軍人として通化の日本人達のために何とかしてやりたい。「この次に中共軍と戦うことがあったら……必ず! 見事に戦ってやるぞ! そして目にもの見せてくれるぞ!」と、若い柴田大尉は心中深くそう考えながら、目映いばかりの月を眺めて堅く決意していたのである。
 仲秋節の夜、中共軍への反旗を思い描いた人達は少ない数ではなかったのである。静かな一夜が明けた。二、三ヶ所で小さな強盗事件があったに過ぎなかった。こともなく明けた空は、深い秋の色をたたえていた。
「助かった!」……日本人はそう呟いた。仲秋節の大殺害はデマであったのだろうか。そうだ。確かにデマであった。だがこの夜の恐怖がもたらしたものは、心の奥にさらに恐ろしい印象と考えを日本人の心に焼きつけていた。
「やられるなら、やってしまえ!」「どうせ殺されるなら、殺してやってやるぞ!」と。
 ……それは追い詰められて、ついに猫に向かって身構えようとする鼠に似ていた。
「窮鼠猫を噛む!」……の諺である。そうして、条件はなおも揃っていくのである。日本人の側からも、さらに国府側や、中共側からも……。
 赤十字病院ではいつものように診療を続けていた。前田伊助見習医師職員と妖艶な美人患者、後述の「通化のマタ・ハリ」こと佐々木邦子との仲が噂になっていたのもこのころからであった。
 十月十二日に、紙田職員は以前から診療を介して親しくしなっていた患者の中で、通化にただ一軒あった風呂桶屋さんから、「終戦前に注文されていた三個の風呂桶が、終戦で引き取り手がいなくなってしまった。仕事場を避難して来た人達の部屋にするのに邪魔になり困っています。三個の風呂桶を全部差し上げますから病院で使って頂けませんか?」と頼まれた。
 紙田職員は早速この話を松倉副院長に計って、その風呂桶を頂くことに決めた。元通信兵の衛生兵や軽症でほぼ恢復していて雑役作業をしていた患者達に命じて、その風呂桶三個を病院へ運ばせた。病院の裏庭に大工仕事のできる者を集めて木材、工具、釘などを調達して、急造ながら仮の風呂屋を建築して開業した。
 病院の職員、軽症患者、病院周辺の民間人を入浴させてやりたいと考えたのである。
 風呂屋の総管理責任は紙田職員が持ち、その運営の指揮を取った。風呂の湯水の入れ替え係、風呂の釜焚き係、浴室、更衣室の清掃清潔係、番台係、衛生消毒係、安全保安係などをそれぞれ任命した。
「無料臨時銭湯」の入浴時間は、午後一時から四時まで病院の職員、四時三十分から軽症患者、民間人、特別に午後四時三十分から、入口や浴室を別にして女湯も併設して開店した。
 午後八時が終湯で閉店である。特別サービスとして夜は婦人の入浴帰りは、屈強な安全保安係の職員の護衛が、それぞれの宿舎や自宅まで責任を持って送り届けた。
 この仮開設の「臨時赤十字銭湯」は大変に喜ばれていた。夜の八時まで大繁盛で男女の歌声や談笑で賑わっていた。垢だらけの男達もサッパリしたし、若い女達も垢抜けして見違えるような美人に変身した者もいたのであった。
 しかし満洲の厳しい冬は間近に来ていた。
「臨時赤十字銭湯」は十月末でわずか二週間の短い期間で閉鎖の止むなきに到ったのである。これは幻の、華やかな臨時銭湯物語の一一齣であった。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita