【登録 2003/02/08】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

二十八、国共内戦避け難し


 戦争が始まる! 中共軍と国府軍が火蓋を切る。そんなニュースが追っかけて入ってきた。中共軍にも国府軍にも、旧関東軍の将兵が編入されているそうだ。両軍とも第一線に日本人将兵を配置して、日本人同士が撃ち合いをしているそうだ。そんな噂も飛んでいた。
 そういう矢先、通化市内で対立していた中共八路軍が突如行動を起こして、国府軍を武装解除するという事件が起こった。

 仲秋節から数日後のことであった。風のように行動を起こした中共軍が、旧通化警務局に拠っていた国府軍公安局へ、不意打ちの襲撃をかけたのである。
 その日は通化の街は朝から人出が多く、なんとなくざわめいていた。
 正午ごろ赤十字病院の近くで、更衣の中共軍の一隊が国府公安局の裏側に急いでいた。
 その同時刻に突然公安局から国府軍の約一個大隊ほどの将兵が飛び出して、通化橋の方向に駆け出していった。
「中共八路軍の主力大部隊が、通化市に向かって行進して来ている!」「通化在住の中共八路軍部隊の司令部の幹部は部隊を引き卒れて、その主力部隊を歓迎するため、通化橋の手前に集結する様子だ!」と、通化市の満人はそんな噂をしていた。初めは囁きだったがだんだんと広がってきていた。国府軍はその噂の真偽を確かめもしないで、通化の中共軍幹部が集結する通化橋へ、主力部隊を差し向かわせたのだった。
 それから三十分ほど過ぎたころ、突如中共軍は行動を起こしたのであった。あっという間もない早業で、国府軍の公安局に攻撃を仕掛けた。国府軍は全く虚を突かれた形であった。多勢に無勢であった。ほとんど抵抗する間もなく、すぐその場で武装解除された。
「通化橋」で云々の噂は中共軍の撒いたデマであった。謀られたと知った国府軍主力部隊は公安局に急ぎ立ち戻ってきた。中共軍はそれを迎え撃ったのである。国府、中共軍の市街戦が始まったが、中共八路軍は華北で鳴らした百戦錬磨の指揮者が、戦闘の指揮をしている。国府軍は元満軍や満警の寄せ集め軍隊である。実戦経験は全くのゼロである。
 勝負は初めから決着がわかっていた。子供と大人の戦争ごっこだった。一時間後には「ドンパチ」は止み国府軍はあっさり降伏した。双方に死傷者は一人も出なかった「ドンパチ劇」であった。
 降伏して武装解除された国府軍兵士は、中共軍に帰順するか、しないかと尋問を受けた。帰順すると答えた兵士は、そのまま中共軍に編入されてしまった。帰順しない兵士は牢獄に入れられて、思想改造、洗脳工作が施されたのであった。
 ただ一部の幹部の国民党孫書記長以下は辛うじて逃れて逮捕されなかった。正規軍でない脆さが完全に暴露された通化の国共市街戦の一幕であった。
 無血占領を遂げた中共軍は、今や全く通化の支配者となった。国府軍が完全に市内から駆逐されると、十月二十三日、正規の一個師団が入城して来た。
 華北戦線で日本軍と戦った毛沢東、朱徳直系の筋金入りの部隊である。満洲は東北人民自衛軍(後に中国人民解放軍第四野戦軍)といって、かつて日本北支派遣軍板垣征四郎兵団を敗走させた、名将軍・猛将林彪将軍が総司令として指揮をしていた。林総司令はソ連でスターリングラード、レーニングラードの対独戦に参加して、戦術を学んできた中共軍きっての近代戦の戦術家である。
 元省公署に通化専員公署が置かれ、陳政治委員が専員の主席専員として行政を担当、政治工作を開始した。
 竜泉ホテルには中共八路軍司令部が置かれ、劉師長が司令に就任した。その下に旧公署に県大隊本部、旧労務会館に公安局、元日満商事支店に後勤部、満林支社に専員公署司法分院、旧警察署に工兵学校、旧東昌校に砲兵学校がそれぞれ設置された。
 また同時に金日成将軍直系の朝鮮人民義勇軍である李紅光支隊が、竜泉ホテルの中共軍司令部に向かい合って駐屯した。
 今や通化は完全に中共軍の手中に落ち、その急速な陣容は日本人の目をみはらせるものがあった。
 その一方で、杜聿明将軍指揮下の国府軍第十三軍が米軍海上部隊の援助のもとに、十月二十日、秦皇島に上陸し、二十七日には山海関を越え、東北奪回の火蓋を切ったというニュースも伝わって来ていた。満洲各地で両軍の戦闘が行われ、特に通化地区では失地回復を狙う国府特務団の工作が極めて活溌化してきた。その工作の狙いは、中共軍の内部崩壊と、旧関東軍を中心とする日本人による反乱を企図することにあった。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita