ああ……悲劇の通化暴動事件!
二十九、日本人移動命令
十一月に入って、「遼東日本人解放連盟通化支部」が創立された。支部長笹野基は元竜泉ホテルの支配人兼コック長であったという。笹野は石川県の出身で以前は大連のホテルでコック長をしていた。ダンサーだった女性と大恋愛の末に結婚した。昨年大連から通化の姉妹ホテルである竜泉ホテルに転勤して来て、命ぜられて竜泉ホテルのコック長兼支配人をやっていた。人柄は大人しくて好人物だったが、和食、洋食、中華料理とその料理の腕前は相当なものであった。昔から中国人は美味しい料理を好んで食べる。
そして中国の諺に、「昔から料理の上手な人間には悪人はいない」といわれている。
料理の上手な笹野氏に好感を持つのは当然であった。その笹野基氏が中共軍幹部に見出されて支部長となったのである。思想的には自由主義的な人間であったが、全く中共軍の意のままのロボットになっていた。
略称「日解連」と呼ばれるこの団体は、北支山西省延安の日本人政治学校で岡野進(野坂参三)から共産主義教育を受けたといわれる杉野一夫(杉本一郎)という人物の指導の下に、中共軍の日本人に対する意志伝達の下請け機関として生まれたものであった。
「日解連」の最初の仕事は平均運動と呼ばれるものであった。
「通化在住の日本人の財貨を全部集めて再分配せよ!」というのだった。いわゆる財閥といわれる人達はこれに猛然と反対した。平均運動は流産に終わるかと思われたが、まるでそれに対する報復でもあるかのように、中共軍は「日解連」を通じて爆弾的な通告を行ってきた。
「在通化の全日本人は南大営に移動せよ! 携行品は各自毛布一枚と金五百円以外は許さない!」理由は平均運動に対して従わなかったためである。
南大営は元の関東軍司令部跡だ。附近の雑木林を伐って応急宿舎を設営しても五千名以下しか収容はできない。一万七千名を越える日本人は到底入りきれない。三分の二以上は野宿するほかはない。厳寒期を控えて毛布一枚の移動命令は、「死ね!」ということに等しい。
居留民会は緊急会議を開いて善後策を協議した。何人かの代表が顔ぶれを替えては司令部へ嘆願しに行ったがことごとく徒労だった。強硬論も出てきた。
「南大営へ移動せよということは、日本人を合法的に殺害しようという意図以外に何ものでもない! どうせ死ぬなら、日本人らしく死のう! 渾江の河原に墓穴を掘り、一列に並んで機関銃で一斉射撃して殺してもらおう!」そういって涙を流す居留民会の幹部もいた。
密かに復讐の決意を固める者も、またいたのだった。彼らの決意は既に固くなっていた。
中昌区の電気器具商会の信濃洋行が彼らの連絡場所だった。寺田山助が民間側の首謀者だった。旧関東軍の首謀者は佐藤弥太郎少尉である。反乱の動きはおもむろに形を整えつつあった。兵隊から兵隊へとその蔓は伸びていき、また民間の同志も次第に集められていった。
一方で平和的解決を最後まで図ろうとする民会の幹部達は、必死に延期工作をまだ続けていた。最後の手段として、各区三名、計十二名の青年を代表として選び、嘆願させることにした。
その結果、次のような回答が司令部からあった。一、日本人の全部が共産主義に転向することを約束する。二、全日本人の財物を提出して、中共または「日解連」により再分配する。以上の二項の実行によってのみ、南大営移動を延期するというのである。翌日、民会は共産軍に忠誠を誓約すること、財貨の平均化を実行することは、暫くの期間を与えてもらいたいことをもう一度陳情した。司令部は厳重監視するという約束を取って一応了解した。どうやら危機は一時的にわずかに延びたようだった。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11