【登録 2003/02/08】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

三十、目に見えぬ戦い


 地下運動はこのころから急に活発になってきていた。信濃洋行には人目を避けて出入りする屈強な若者が目立って増えてきた。寺田山助が入っていくと佐藤少尉がどこからともなく現われて、奥へ消えていく。暫くすると若い脱走兵らしい精悍な男が中から出ていく。男は油断なくあたりに目を配りながら、やがて彼は赤十字病院へ入って、院長室で柴田大尉とヒソヒソと話し込んでいる。
 その門の外では、患者とも通行人ともつかない男が、先刻から行ったり来たりしている。その男は信濃洋行からずっとここまで、若い男を尾行して来たのだ。八路軍のスパイの日系工作員だ。
 通化の街は既にこのような険悪で複雑な様相を帯びてきていた。謀議を企てる者、それを暴こうとする者が必死の戦いを目に見えないところで展開しているのだった。
 赤十字病院では院長の柴田大尉派と副院長の松倉大尉派とが激しく対立していた。柴田大尉は既に反乱の決意を固めていた。
 柴田久軍医大尉は昭和十八年に医学部を卒業するとすぐ陸軍軍医中尉として関東軍に入隊した。昭和二十年四月に大尉になったばかりである。そしてまだ二十七歳の若い青年軍医であった。
 松倉衛生大尉は三十歳を過ぎていて、思慮の深い老練な将校であって、若い柴田大尉の舵取り、相談役として副部隊長に任命されていた。
 若くて決起に逸る柴田大尉に対して、沈着な松倉大尉は、「戦争はもう終わったのだ。何の必要があってわざわざ今さら中国の内戦に巻き込まれ、日本人の血潮を流さねばならないのだ、我々は一日も早く日本に帰って、祖国の再建に尽くすべきだ!」と、懸命に説いた。だが柴田大尉はそれに反撃して言うのだった。
「ソ連と中共が満洲、支那、朝鮮を共産化した場合、その次に来るのは日本だ。祖国の共産化を俺は少しでも阻止したい。また中国にしても共産化されることによって、国民が幸福になるとは思えない、俺は国府に協力して中国の復興にも力を貸してやりたいのだ!」
 中国共産党の毛沢東主席が領導して、その下で朱徳総司令が指揮する中共軍が強大な基礎を築き上げて、至るところで国民党の蒋介石総統の率いる国府軍を撃破している現在の勢力を、不幸にも柴田大尉は知らなかった。
 およそ作戦の要点は情勢に対する適確な判断を下すことにある。情勢分析は豊富な情報と資料とがなければ行うことができない。血気だけでは何もできないばかりか、かえって痛烈な報復が加えられるのみなのである。
 三ヶ月前に終わったばかりの第二次世界大戦(大東亜戦争)が良い教訓だったのである。
 柴田大尉はそれに気づかなかった。寺田山助も、佐藤弥太郎も……。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita