ああ……悲劇の通化暴動事件!
三十一、絶望の日々
通化は不気味な空気に包まれながら十一月を迎えた。既に冬である。日本人の苦しみは絶頂に達したかと思われた。
平均運動の強行に耐えかねて通化を脱出して行く中国人があとを絶たない。中国人でもその通りなのだから、日本人の苦境はなおさらだった。主だった居留民会の幹部や有力者は、ほとんど留置されてしまっていた。首脳部を失った居留民会は完全に機能を喪失してしまっている。
市街ではその後も国共両軍の小競り合いが頻発した。それはごく小規模のものであったが、通化市周辺では絶えず相当な戦闘が行われているようであった。澄んだ空気を震わして、砲声や銃声が市民の耳に響いてきていた。通化近郊で行なわれた国共両軍の戦闘は三日間続いた。ソ連軍の援助を受けて八路軍が大勝し、国府軍は敗走したという情報であったが、この戦闘で負傷した中共兵が通化へ後送されてくると同時に、日本人の独身婦人に対する徴用が始まった。付き添い看護婦として毎日約五十名が通勤させられた。
十一月三日、赤十字病院の建物(元通化高等女学校跡)は中共軍に強制的に接収された。そして旧通化省警察学校跡にただちに移転を命ぜられた。急遽二日間で移転させられたのである。建物は元通化高女のような二階建てではなく、平屋の建物で規模は前の半分であった。土間に板を並べてその上にアンペラを敷くというお粗末な病室が、急造されていたものであった。職員には土間にアンペラを敷いただけの部屋が宿舎に当てられた。
十一月六日に中共軍軍医部よりの要請で、通化省立病院へ十三名(池野、石橋、折月、紙田、工藤、佐藤(武)、白石、福島、横田、横山、吉村、和田、小野(元通信兵))等の職員を、田村病院(元旅館田村)へ十二名(久村、清水(憲)、唐沢、小林(庄)、大野(金子)、玉城、篠原、伊藤、小林(一)、池田(元通信兵)、今泉(元通信兵)、千葉(元通信兵))等の職員をそれぞれ派遣した。
中共軍の負傷兵が大量に入院したためなのである。一、通化省立病院の勤務医師が足りない。二、それに外科の医師には戦傷治療の経験がない。三、野戦病院の職員なら軍陣医学を教育されている。それだから戦傷外科の治療は全部お任せしたい。四、そして特に夜間の当直勤務をしてもらいたい。五、レントゲン技師がいない。池野、工藤職員にはレントゲン室勤務をお願いしたい。外科勤務は一昼夜連続勤務であったが、隔日休みの勤務であった。
田村病院は元旅館を病院にした新設の病院で、割合軽症の負傷兵が収容されていた。赤十字病院の派遣職員だけで診療が全て任されていたのであった。
派遣前にそれぞれ特別任務を柴田院長から与えられた。それは、「赤十字病院は中共軍の傷病兵を入院させたので、民間日本人の診療は完全に禁止させられた。今後君達は街の各区に一ヶ所ずつ合計三ヶ所に診療所を設置して、見習軍医諸君は二名ずつで交代しながら、民間の日本人の患者を診療するようにしてくれ」との任務命令であった。
当時の中共軍の負傷兵は真の重傷患者はごく少数であった。大半は軽傷でただ大袈裟にしてみせている奴が多かった。元満軍、元満警、酷い奴になると「ダンピン、ジャーフアーツアイ(兵隊になると一攫千金ができる)」と中共軍に潜り込んでいる奴。それは様々な兵隊達だった。だから戦場ではカスリ傷でも大騒ぎして、後方に送られて来て入院している。
そんな奴は昼間は大人しくしているが、夜になると威張って大騒ぎをする。賭け事、掠奪戦利品? の交換や売買、酷い奴になると炊事から肉、野菜、麺、塩、醤油、油、包丁、鍋、麺盤、麺棒の果てまでシヨゥトル(盗み)してきて、夜になり中共軍幹部のいなくなるのを見すまして、各部屋に備え付けのストーブに料理鍋を掛けて、ワンタン、支那麺類などを作って、仲間を呼んで病室でチャンチュー(支那の焼酒)を飲んでドンチャン騒ぎの宴会をやっている奴もいた。奴らには共産主義も革命思想の欠片もなかった。
こんな奴らに日本人の若い独身婦人達が、付き添い看護をさせられて、毎日嬲られているのかと思うと無性に腹が立った。中国軍隊(中共軍、国府軍を問わず)では負傷兵の天下様であった。警備兵も一緒になって酒を飲んで騒いでいやがった。
その彼らのほとんどが粗暴で傍若無人で狡賢い奴らであった。そんなありさまだから、省立病院勤務の医師達や看護婦連中も、夜間は恐れて勤務したがらないのも当然である。
我々はそんな奴らを適当にあしらって、柴田院長からの特別任務である、避難民、民間人達の診療をすることに生き甲斐を見出していた。
「我々は関東軍の野戦病院、今は仮称赤十字病院からの特別派遣の幹部職員である!」との誇りを持って……。
凛とした赤十字病院からの派遣職員は奥田省立病院長をはじめ医師、看護婦に頼りにされていた。若い独身看護婦達は彼らに恋のモーションを掛けたのは当然の成り行きであった。院内で、宿舎でのロマンスの華が盛んに咲いて、いくつかのカップルが生まれていた。(Y職員+M看護婦、O職員+S若い付き添い看護の娘さん、W職員+O年増の元将校夫人(二人は夫婦として)、K職員+Y看護婦、I職員+N看護婦、K職員+T若い付き添い看護の未亡人、等々)
また派遣された我々職員の中に横田百喜という豪快な男がいた。彼は関東軍衛生幹部教育隊の候補生として入隊して来る以前の経歴は、普通の候補生と大変変わっていた。
関東軍衛生幹部教育隊に来る以前の横田職員は、高知県の出身で、召集されて軍隊に入隊して華北の各地の戦線を転戦してきたのである。そしてやがて衛生兵となり、聯隊付きの最古参の衛生兵長であった。
年齢は我々や他の職員より十歳ぐらい年長であった。性格は磊落で人情脆く浪花節的な男で、「兄貴分!」を赤十字病院(野戦病院)内では自他共に任じていた。
彼、横田は病院に付き添い看護員として来ていた「緑川のお姐さん」こと、例の「唐ゆきさんのお姐さん」から、あのソ連軍司令部への生け贄の話を聞くと、その健気さにすっかり感激し、また彼女のその身の上に同情して、「緑川のお姐さん」と意気投合して早速結婚して同棲した。そして奥田院長の取り計らいで病院宿舎の一室を彼ら夫婦の新婚の部屋にして暮らしていた。
また病院の炊事で我々は朝夕の二食の給食を受けていたが、患者の残飯の炊き直しであった。主食はまあまあだが、副食のお菜は肉が全然入っていないか、入っていてもわずかに菜っ葉の陰に隠れて存在するくらいの代物であった。激しい一昼夜の連続勤務である、栄養が日を追って不足してきた。看護婦も見るに見かねて、ときどき弁当などの差し入れをしてくれたが、動物性蛋白質は完全に足りなくなっていた。そこで我々は工夫した。それは非番の職員で診療所に出かけない者は、熱心に野犬? 捕獲に(赤犬が良いと)精を出していた。
犬の解剖解体はメスを取らせたらお手のもので、チョンチョンと終わって、その後は料理のお手並み拝見である。空揚げ、肉鍋、焼き肉と献立は豊富であった。それで動物性蛋白質の補給をしていた。
……「ああ……通化の犬達よ。赤犬よ、我らの活力となってくれてありがとう。改めて深く感謝する。以て瞑せよ!」
奥田省立病院長は石川県の美川町の出身で、満洲医科大学校を卒業後満洲各地の省立病院を歴任して、通化には六年前から院長として在住していた。人格者で立派な医師であり、広く患者や街の人達から「神か仏」のように信頼、尊敬されていたのであった。
中国語も達者で中国人からも「オウテン、イャンジャン、タイジン」(奥田院長大人)、「オウテンタイフ、センション」(奥田、お医者様の先生)と慕われていた人物であった。
石川県出身の職員紙田、清水(憲太郎)は同郷の誼みで、ときどき奥田院長に招かれて、美人の奥さんとお手伝いの娘さんの家庭料理で、ロシヤのアルコール度の強い果実酒をご馳走になった。そのとき、奥田院長は日本人の今後の生きる方法、日本の国の方向について高邁な考えを持っていて、よく次のような話をしてくれたものであった。
「今後の日本の復興と民主化の問題は?」
「それは戦争のない平和な国作りと、軍閥、財閥をなくして、国民全てが平等で暮らすことである!」
「今後の日本人の在り方と将来については?」
「原料は世界各国から輸入して、日本人は高度な技術で精密な製品を世界の国々に輸出して貿易収支のバランスを計ることが必要である。その基本は永久に戦争のない真の平和な日本を目指すことだ!」と素晴らしい卓見を持っていた。
「日本人と満洲人について?」
「満洲における中国人に与えた日本人の過去の過ちを謝罪して、その償いをすること!」
「正しい今後の日中友好の発展について?」の質問にも、
「民族や主義思想の違いを乗り越えて、お互いに尊重し合って平和な交際をするべきだ!」とハッキリした考えを意見として述べていた。
それは、奥田院長は当時においては珍しい戦前からの侵略主義戦争反対の真の平和主義者でもあったからである。
私達はその考え方に深く感銘した。
そうして奥田院長のその主張や考え方、彼の話の多くに共鳴していた者も戦後の通化には結構いたのであった。
この奥田院長を一番煙たがっていたのは、通訳の件で(李紅光支隊の朝鮮人通訳がでたらめの通訳をして、日本人と中共軍の幹部との交渉に皸を入れる寸前に、ちょうど来合わせた奥田院長が流暢な中国語で早速正しい通訳をして交渉が円満に解決した。そのため朝鮮人通訳はメンツを潰されたうえ、その中共軍幹部に強く叱られた)すっかり赤恥を掻かされた(通訳連中である=彰注)。朝鮮人民義勇軍の李紅光支隊の中の通訳連中はそれを深く恨みに思っていたのであった。これがやがて彼ら朝鮮部隊の兵隊が「通化暴動事件」のドサクサに紛れて、狙っていた奥田院長を無惨にも背後から銃撃して殺害したのである。
当時の日本人には現実の通化は厳しかった。人々は何とか生きるための毎日に追われていた。
そのころ中共軍命令で通化の日本人男子の登録が厳重に行われていた。十六歳以上六十歳までの男子がこの対象となった。総数約六千三百名である。
登録が終わるのと同時に、強制労働が隣組を通じて割り当てられてきた。三日に一日の割合で就労させられるのだが、全くの無償労働である。
仕事は軍事施設の拡張強化工事が割り当てられた。特に旧関東軍飛行場には、毎日一千名内外の日本人が使役に狩り出され、飛行場の拡張工事に当たらされた。
いくら働いても食えない時代である。無償の就労が三日に一日の割合で続いては、路頭に迷わざるをえない。いくらでもいいから日当を出して貰いたいという陳情も、全く顧みられなかった。
十一月中旬、中共軍司令部から赤十字病院へ、前線へ患者収容隊を派遣するよう要請があった。〓島軍医中尉、平井軍医中尉を隊長に交替で職員十名と共に、数次にわたって前線へ患者収容隊として赴いた。不幸中の幸いで職員には一名の事故者もなかった。このときも全くの無償であったことはいうまでもない。
なかでも避難民の生活は極度に苦しくなっていた。婦女子が大半を占めているのだから、悲惨さは言語に絶していた。中には身体を売る者も現われ始めた。中国人やソ連人に貞操を提供するのである。
市中の病院には、日本人の女性が性病の治療に来たり、堕胎手術を受けに来たりするという噂が高くなった。
日本人を取り巻く周囲の情勢は、ことごとく絶望の種となるものばかりだ。
「日解連」に対する不満と不信が急速に高くなってきた。そのころ、日本人の間ではこんな風評が立つようになった。
長白山に立て篭もっている旧関東軍の残存部隊から、「日解連」へ軍使が来たというのだ。軍使は、「中共八路軍がこれ以上日本人を苦しめるなら、旧関東軍は長白山を下って、中共軍と一戦交えるであろう!」と通告したというのである。
これを信じ、そして期待したくなるほど、日本人は苦しんでいたのだった。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11