ああ……悲劇の通化暴動事件!
三十二、「田友」藤田参謀を捜せ
反乱を実行に移すための精神的条件が、このようにして中共不信分子と抗戦分子の間で整ってきていた。全ての反乱と暴動に共通する心理である。
日本人の一部、それは未だにファッショを奉じ、反動的にかえってそれを強くしていった人々達の間で、暴動への動きが急速に高まってきていた。背後では国府軍がそれを操っていた。この二つは今や完全に一つのものとなろうとしているのだった。
もちろん、中共八路軍でもとっくにこの動きを掴んでいた。諜報員の活動が急に盛んになってきた。特に日系工作員の活動が活発だった。
こうして日本人、国府、中共の三つが入り乱れて、短い秋も終わり、早い冬を迎えた。
「田友」は、「藤田大佐」は、「あの髭の藤田参謀」は、という声が盛んに交わされるようになったのは、実にこのときからであった。
日本人達は必死になって藤田大佐の行方を捜していた。反乱の指導者は彼をおいて他にいないのだ。
謀議に加わっている旧関東軍の将兵は、せいぜい最高が大尉止まりの若さである。民間側の人達は作戦用兵の経験を持たない。
どうしても藤田大佐を担ぎ出して、最高指導者と仰がねばならない。国府側もまた「田友」の発見に必死だった。最も信頼しうる人物、大人と呼ぶに真に相応しい日本人が彼であった。そして国民党通化支部書記長孫耕暁の許へは、奉天の遼寧政府から「田友」を暫編東辺道軍事委員会顧問に就任させ、「対中共作戦の参謀たらしめよ!」という指令が発せられていたのであった。
藤田大佐の行方を突き止めようとするものに、さらに中共八路軍があった。彼らにとってもまた、「田友」の存在は大きかった。徹底した反共思想を持って反発の機を狙っている旧関東軍の脱走離隊者と民間日本人の動きは、既にリストに上っていたのだが、その総帥はほかならぬ「田友」であった。
「彼らが藤田大佐に寄せる信頼は大きくて、通化居留民の反共の源泉をなしている!」
そういう報告が日系工作員から提出されている。しかも彼は旧知の多い国府軍によって、その一角に引き込まれようとしている。
「藤田参謀を捜せ!」「田友を探索せよ!」二重三重の指令が三者三様に発せられていた。
当の藤田大佐はこのとき、通化からほど遠からぬ山間の小さな村にいた。通化から長白山の方向へ約七里、石人という炭鉱に彼は部下の三名と家族を連れて、炭鉱夫として潜入していた。最早、あの「関羽髭」は剃り落として今はない。柔和な初老の鉱夫に成りすまして、探索の目を逃れて生きていた。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11