ああ……悲劇の通化暴動事件!
三十五、日本人大会開く
岡野進(後の日本共産党の野坂参三氏)が作ったという大会運営方式で議事が進んでいった。日本人の職域代表が何人か立ってそれぞれが中共への協力を誓った。
そして藤田大佐が登壇する番となった。会場を埋めた日本人は固唾を飲んで「髭の参謀」が姿を現わすのを待った。やがて右手の袖から粗末な木綿の中国服を着た四十四、五歳の変哲もない男が姿を現わした。粗末な服装でどこの百姓親父かと思われる男だった。しかし男は悠揚として迫らない足取りで歩を運ぶと、正面の机の前に立ってこちらを向いた。
それが藤田大佐であった。満場を埋めた日本人は暫くの間あっけに取られていた。それほど彼は変わっていたのだ。髭もない。参謀肩章もない。めっきりと老い込んで、三ヶ月前の精気は彼の姿のどこにも見当たらなかった。だが、やっぱり今、目の前にいるのは、あの藤田大佐だった。沈黙は拍手に変わった。割れるような拍手が場内を包んでいった。
壇上の藤田大佐は靜かに頭を下げた。苦しげな、複雑な表情が彼の面上を走り、そして消えた。それから静かに、重々しく口を開いた。
「終戦以来四ヶ月、天皇陛下の御詔勅に示された精神に立って、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、混乱の異境に敗戦民族の悲哀を嘆きつつ暮らされている皆さんの姿を、今目の前にして、通化防衛の任務を帯びて駐屯していた者として、無量の感慨が胸に迫るのを覚えるのであります」水を打ったような静かな場内に、藤田大佐の低い声が響いていった。全身を耳にして聴衆は聞き入った。次には何を言うのだろう。
「今や東北人民自衛軍の手によって治安は回復され、着々と解放の実は上がりつつあります。我々日本人としてもその治安下に保護されている限り自衛軍に協力する義務があると考えます」声は相変わらず低い。かつて徹底抗戦を叫んだ。あの張りのある声は終わりまで返ってこなかった。それでもいくらか声を大きくして、話の締めくくりに持っていった。
「私も今は一炭鉱夫として、老骨に鞭打ちつつ、復興に微力を捧げております。今後も諸君と共に力を合わせて各民族の安定のできる社会を創ることを念願して止みません」と話はそれで終わりであった。
あまりのあっけなさに聴衆は暫くポカンとしていた。気の抜けた拍手がばらばらと起こっただけだった。人々は強烈な爆弾演説が投げつけられるだろうと期待していたのだ。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11