【登録 2003/02/10】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

三十七、藤田参謀監禁さる


 藤田大佐はその日から竜泉ホテルの中共軍司令部に監禁された。四階の一室が独房に当てられた。
「日本人大会」で気勢を上げていた日本人の間へ、どこからともなく、「藤田大佐は逮捕されていたのだ!」「強要されて演説したのだ!」という声が伝わってきた。人々は愕然とした。
 そして、中共が打った芝居の巧みさを今さらのように知った。うまうまと日本人は踊らされていたのだ。
 その夜、中共軍司令部は厳重な警戒の中にあった。緊急動議の「天皇陛下万歳!」で意気上がっている日本人に備えての警戒である。中共軍司令部玄関の中央に、重機関銃が据えられ、灯火を受けて黒光りに光っていた。ものものしく武装した衛兵がひっきりなしに軍靴を響かせて巡視している。今にも戦争が始まりかねない警戒ぶりであったが、その夜は何事もなく明けた。
 次の朝は、挨拶代わりに皆んなが言い交わした。
「藤田参謀が捕まったそうだね!」「藤田大佐は司令部に監禁されているそうだよ!」藤田大佐逮捕のニュースで、最も大きな衝撃を与えられたのは国府側と抗戦派陣営だった。
 孫書記長を中心とする国府地下組織は、地団太踏んで口惜しがった。瀋陽の遼寧政府へ彼のもとから密使が立った。
「田友」は既に国府陣営の重要人物として、連絡がつき次第味方に引き入れることになっていたのだ。見事にその先手を打たれたのである。
 信濃洋行を根城にする日本人の抗戦派は、さらに打撃が大きかった。彼らはひそかに藤田大佐が石人炭鉱に潜んでいることを突きとめていたのである。密偵の目を掠めて何度か連絡を取り、その出馬を要請していた。
 藤田大佐が依然として抗戦の決意を持っていることも確かめていた。国府と協力して反共の旗を翻す意志を持っていることも打診していた。その矢先の逮捕であった。もっともこのことを知っているのはごく限られた首脳部、しかもその数名だけで、厳重な口止めが敷かれていた。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita