ああ……悲劇の通化暴動事件!
三十八、藤田大佐奪還計画進む
氷雨がいつしか雪となり、一日中降り続いた。それからは降るものは雪ばかりだった。もう全くの冬が通化に来ていた。その年の冬は特に寒さが厳しかった。皆んながよく風邪を引いた。
日本人の生活はいよいよ苦しくなるばかりだ。餓死、凍死が続出し始めている。海老谷繁を委員長とする「日本人救済委員会」が結成されたのもこのころであった。
「日本人大会万歳三唱事件」があって以来、中共軍の日本人に対する監視はますます厳重になった。その間を縫って国府特務団の暗躍も激しくなり、市内の治安も目に見えて悪くなっていた。
そういう矢先の十一月十四日、通化にほど近い二道溝に駐屯する八路軍第二団を国府系の混成軍が襲撃した事件が起こった。二道溝には満洲製鉄の製鉄工場があったが、中共軍が接収して軍工部を設置し、工務局と兵工廠があって、兵器製造に当たっていた。ここは藤田大佐の息のかかった、旧伊万里師団の将兵約百名が潜入しているところだった。
襲撃したのは旧満洲国軍、警察官に日本兵が加わった混成軍約六百名であった。奇襲が成功して一時は重要拠点を占領したが、中共救援軍が到着すると逆襲を受け、結局敗走してしまった。
この事件が日本人の立場をいよいよ不利にした。万歳事件といい。二道溝事件といい。日本人はいつ爆発するかもしれない爆弾を抱いているようなものだった。
事実、日本人の中の抗戦派はその爆弾の投げ場所を捜していた。そのためには司令部の四階に監禁されている藤田大佐を奪還しなければならない。せめて連絡をとることにでも成功しなければならぬ。
寺田山助、柴田大尉、佐藤少尉、赤川大尉、寺田少尉、加元少尉、近藤大尉、阿部大尉、佐々木少尉、それに中山、片山警官など、こういう顔ぶれが抗戦地下組織を形づくっている人達だった。
寺田山助を除いては、あとはほとんどが二十代の青年ばかりだった。
「藤田大佐の生命がいつまで安全であるのか、それはわからぬ、奪還は急を要するぞ!」という者がいた。
「いや中共は滅多なことはするまい。軽挙妄動するとかえって大佐の生命が危ういぞ!」と反対する者もいる。
「だが通化から他の場所へ、移動させられたらどうするのだ!」
「そうだ、我々の手の届くとこるにいるうちにことを運ばねばならぬ!」そういう者もいる。
信濃洋行はそろそろ危なくなってきていた。密議は転々と場所を変えて行われていた。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11