【登録 2003/02/10】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

四十一、牢獄の指揮官


 司令部へ送り込んだ安田看護婦から、やがて佐々木邦子を介して第一回の連絡があった。
「藤田大佐は手当ての甲斐があって、めきめき回復してきている。この調子ならすぐ元の身体になるだろう」というのであった。
 連絡役は例の佐々木邦子が当たっていた。佐々木邦子の正体は実際のところ、反乱派の人達にもよく掴めていなかった。
「怪しい女だ」「中共軍と国府軍の二重のスパイではないのか?」という声もあったが、大胆でしかも綿密な情報収集活動は、男達にも十分に一目を置かせた。いろいろな噂が彼女を取り巻いていたことも事実だった。
 例えば、邦子の正体は国府軍のスパイだという説がある。日本人は彼女に操られているにすぎないというのである。
 全く逆の情報では中共のスパイだという噂もあった。彼女は中共側のスパイでないことは明らかだった。同時に中共幹部の誰かを誑し込んでいるということもはっきりしていた。中共諜報網を色仕掛けで掻き回し、そこから数々の情報を得ていたのである。
 邦子と早苗の二人の女性による連絡は、その後も順調に進んだ。詳細な蜂起計画が二人のリレーを仲介にして、藤田大佐と反乱陣営の間で進められていった。連絡はさらに孫耕暁一派の国府地下組織へも延びた。
 藤田大佐はついに獄中で国民党暫編東辺地区軍事委員会顧問に就任した。委員会主任委員には孫耕暁が自ら就任した。これらは全て瀋陽の遼寧政府李光沈によって任命された。今や藤田大佐は在獄のまま反乱軍の指揮を取る身となったのである。そうなると、いつまでも指揮官を獄中に置いておくわけにはいかなかった。
 藤田大佐奪還という、第二の手段を取るべきときが来たのだった。その時期、その方法……、極秘裡に藤田大佐の奪還計画が練られ始めた。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita