【登録 2003/02/10】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

四十二、関東軍航空隊投降


 そういうとき、満洲全土では国共両軍の全面的衝突が避けられない段階に達していた。既に秦皇島に上陸した杜聿明将軍麾下の第十三軍は山海関を奪取して北上中である。
 これに呼応して国府第七十二軍が胡芦島に上陸し、十一月二十一日には錦西を攻略、翌二十二日には錦州を奪回した。
 中共も歴戦の八路軍を中核に、関東軍の兵器の全てをソ連軍から引き継いで装備した現地軍の東北自衛軍を加え、応戦の準備を整えていた。全面的な衝突は最早時間の問題となり、緊迫した空気が通化市にもヒシヒシと迫って来ていた。
 十一月下旬、毎日のように通化市の上空はもうもうたる砂塵に覆われていた。酷寒の前触れの北西の季節風が蒙古から砂塵を運んで来たのである。目も開けられないほどの砂吹雪で、黄色い太陽が空にかかり、朝から黄昏のように薄暗かった。
 その砂塵の中に、一機、二機と爆音を轟かせて戦爆連合の編隊が通化上空に現われた。
 砂塵を通して銀色の翼に紅く染め抜かれた日の丸を見つけて、日本人は狂喜した。
 戦闘機、爆撃機合わせて十機の戦爆編隊は、上空を一周、二周すると機首を下げて通化飛行場へ順次に着陸した。日本の飛行機が来た!
 喜んだのも束の間、それは中共軍に投降した旧関東軍航空隊であることがわかった。
 本溪湖宮の原陸軍飛行隊隊長林少佐以下の隊員が、通化防衛に派遣されたものだという。やがて整備部隊も後を追って来て、航空隊員は四百名となった。
 続いて旧関東軍戦車隊隊長木村大尉以下三十名もやって来た。隊員は旧陸軍の軍服に階級章もそのまま、林少佐以下の将校は昔のままの軍刀を下げていた。中共軍の中に関東軍の将兵が入っているということは、通化の日本人達も知っていた。
 しかし今初めてその姿を見て、皆んな複雑な表情だった。何か靄々とした、ふっきれない感情が胸に残るのだった。
 中共軍にもいるのだから国府軍の中にも日本人が入っているだろう。そうするとやがて彼らは、この満洲のどこかで戦わねばならないだろう。同胞が敵と味方に別れて相討つ光景を考えるだけでも心が暗かった。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita