【登録 2003/02/11】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

四十六、反乱反対派立つ


 赤十字病院の柴田大尉のところへは佐藤弥太郎、寺田山助の外に前田伊助、小島義人、佐山長寿の部下達、阿部、赤川大尉などの地下の建軍を策する旧将校、中共治政に不満を抱く居留民の有力者達、除隊兵などの往来が頻繁になった。
 しかし通化に住む日本人達のほとんどは、そんな無謀な行動に加担するほど単純でもなければ、勇敢でもなかった。誤れる民族主義、単純な動機、そして恐るべき武力行動……それに対してはっきりと反対する人達もいたのだ。
 居留民会の高橋貞三、井出俊太郎、元通化高等女学校校長片岡語咲、通化省立病院院長の奥田義昌医師というような知識人達は、無謀な反乱計画を洩れ聞いてひそかに胸を痛めていた。
 日本人の務めは一日も早く日本に帰ることだ。そして祖国の再建復興に参加することである。その日までどんな苦労も屈辱にもじっと堪えていくことだ。
 反乱に反対する者は柴田大尉の赤十字病院の部下にもいた。掌握力が強く部下思いの彼ですら、部下の思想的立場を変えさせることはできなかった。最も強硬な反対者は副院長の松倉大尉を代表とする近藤、土肥、岩井、森実見習軍医職員、紺田経理職員などの慎重派の一団だった。
 副院長の松倉大尉は、柴田院長に対して、「我々がどうして中国内戦に首を突っ込む必要があるだろうか? 我々(の任務=彰注)は一日も早く病院の全職員を復員させることだ。全員無事に日本に帰り着くことでしかない!」と力説した。だが院長の柴田大尉の決意は固い。
 こうして病院内では柴田派と松倉派が対立して、重苦しいまでに不穏な空気を醸し出していた。
 反乱計画に心痛する男がもう一人いた。
「山田参謀」と称されている、例の得体の知れない日系政治工作員である。彼の手許には、彼自身が集めた反乱計画の概要が握られていた。
「日本人のために俺は中共入りしたのだ!」といつもそう公言している彼の真意が、どこにあるのかはわかからなかったが、彼が反乱の発生を恐れていることは事実だった。なぜなら、「山田参謀」は中共司令部が放っている日本人、中国人のスパイが相当数、反乱派の中に潜入していることを知っていたからだ。計画は恐らく未然に防がれるだろう。そして日本人のほとんどは一網打尽になる。その果てには極刑が待っている……。
 入り乱れる暗闘の中へ、「山田参謀」を中心にした「反乱防止運動隊」が、また新しく加わった。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita