【登録 2003/02/11】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

四十八、総帥帰る


 藤田大佐の逃亡がわかったのはそれから三十分ほど経ってからであった。氷を取りにいくと下へ降りたまま、安田看護婦がいつまで経っても帰ってこないので、不審に思った衛兵がドアを開けてみると、もぬけの空であった。
 驚いた衛兵が慌てて一階の警備隊長に報告した。非常警戒の号令が下ったときは、もう後の祭りだった。
 庭に捨てられた布団とロープ、姿を見せぬ看護婦、完全な脱出である。司令部では火のついたような騒ぎになった。軍靴の音、撃鉄を外す音、闇を切って飛ぶ号令。正門から警備兵が飛び出していく。日系工作員が慌ただしく駈け出す。
 そのころ通化市の西北の外れにある赤十字病院の院長室で、柴田大尉が小島義人、佐山長寿の二人の部下に、口早に命令していた。
「中共兵が必ず捜しに来るぞ。ただちに警戒配備につけ!」と言って、「そうだ。伝染病棟がいい。あそこの別室へ入れろ!」安田看護婦は無事に病院へ帰って来たのだ。
「隊長殿!」と佐山が大尉に呼びかけた。
「安田さんに気の毒ですが、頭を丸坊主に刈って、病衣を着せて、患者になってもらうのが一番良いと思いますが」
「よかろう。佐山が護衛責任者だ。絶対離れるな。それから他の職員にも気づかれないようにしろよ」安田早苗の長い黒髪はたちまちバリカンで刈り取られ、綺麗な青道心になっていた。
「ご苦労さま。本当にありがとう!」柴田大尉がその姿を見て改めて頭を下げた。
「藤田大佐は大丈夫でしょうか」
「大丈夫、今ごろは清真寺の離れで祝杯を挙げているよ」
 そのころ、藤田大佐は清真寺の奥の離れの一室で、同志達に迎えられ、ささやかに成功を祝う宴を張っていた。
 戸外には長白颪が荒れていた。二重窓にはキラキラと輝く氷花が美しい花模様を描き出している。
 ……総帥帰る!……その夜、中共軍の探索は酷く厳しかった。
 伝染病棟に入った安田早苗はさらに眼鏡を掛けて、ベッドに潜り込んでいた。青白い結核患者が一人増えた。もう一人の太田雅子は、その日の前日に、既に通化省立病院の和田職員の愛人と届けて、病院の職員宿舎に移り住んで、素知らぬ顔で付き添い看護婦となっていた。
 赤十字病院には表向き、これで女性は一人もいないことになったのである。安田早苗はその後市街の民間人の家に潜り込んで、何知らぬ顔で暮らしていた。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita