ああ……悲劇の通化暴動事件!
四十九、練られる作戦計画
藤田大佐の手許であらゆる情報が分析され整理された。大きな地図が何枚も広げられ、その一つ一つにぐいぐいと赤や青い線が引かれていた。
錦州、営口、遼陽、瀋陽、吉林、その全線にわたって中共軍と対立する杜聿明配下の国府第十三軍、六軍、七十軍、六十軍、独立保安便衣隊。
鳳凰城砲兵第六十一団二千名は竜泉溝の旧満洲国軍千二百名からなる砲兵第二十三団と合流を終わっていた。
旧寛田守備の満洲国軍高射砲隊第四砲兵団七百名は、大西盆の旧満軍警保特別大隊及び泌子門の旧関東軍からなる兵器大廠、輯安から来た旧関東軍千五百名を主体とする前線第七営と合流が終わっている。
これらはいずれも長白山に立て篭もる関東軍残存部隊に密使を派遣して、合流を要請しており、合体はまず動かない。この諸部隊が反乱と同時に通化に来援する手筈は既に整っている。
だがまた別の情報も入っている。輯安方面の情報連絡から帰って来た江藤軍曹の報告によると、竜泉溝に集結していた約三千三百名の旧関東軍、満軍からなる混成軍は、中共第六師団の総兵力一万二千名の重囲に陥っている。
また孤山のの第三十二警保大隊約五百名の旧関東軍と特別歩兵団約一千名の旧満軍及び旧関東軍約三万名の大部隊が山東から増援された中共新兵団の六万名によって、一面山方面に追い詰められている。
石崗廟では新編三師団車輛団が奇襲をうけ、辛うじて脱出したが、旧関東軍部隊は徹底的に叩かれ連絡が取れない。
錯雑した国共両軍の戦線の実態は、関東軍有数の作戦家といわれた藤田大佐にも、なかなか掴みにくかった。
一月一日を期しての決起はとても不可能であった。脱出した三十日の夜は彼は一睡もしなかった。三十一日の朝が来た。余すところは今日一日である。瀋陽へは延期することを報告してあった。数日前、佐藤弥太郎少尉が連絡に出かけている。しかし彼はまだ帰らない。
髭を落とした藤田大佐は、その後の監禁生活と病気でげっそりと痩せ、急に顔が小さくなったようだった。その顔には苦渋の色が濃い。
一度作戦を誤れば一万七千名の日本人の生命に関わるのである。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11