【登録 2003/02/11】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

五十、スパイ撃たるる


 三十一日の昼前、雪を踏んで離れの庭へ入って来た男がいた。
「ただいま帰りました!」佐藤少尉の声であった。彼は終戦後初めて旧上官の藤田大佐に会うのである。
「延期するよう決めてきました!」
「いつだ!」
「一月十五日ということに決定しました! 独断ですが!」佐藤少尉は懐を探って二通の紙片を差し出した。
「杜聿明と溥作儀から大佐殿への密書です!」読むまでもなく決起への要請と激励だった。
 連絡をすませ瀋陽の情報を報告すると夜になった。彼は藤田大佐が昨夜から徹夜で起案した攻撃編成表の写しを受け取った。
 佐藤少尉は寺を出た。外は降りしきる雪である。人通りの絶えた通りを彼は同じ清真街の栗林の家へ向かった。東辺道開発会社に勤務していた栗林という男の家が、その後作戦本部に当てられていた。主人は目立たぬ男だが、夫人の章子が気丈な女丈夫で、はじめアジトに使っていたのが、今は作戦本部になっている。
 その家へ足を向けた佐藤少尉は後ろから尾行して来る男にすぐ気がついた。寺を出ると同時に、さっと雪の中の民家の門に身を隠した黒い影を彼は見つけていた。約百メートルほど歩いた。やはり男はつけて来る。もう百メートル歩いたところで、彼は素早く道を曲がると塀にくっついた。
 ぎしぎしと雪を踏んで歩いて来る男の足音がする。曲がり角で止まった男が、一歩足を踏み出したとき、佐藤少尉の手の中の拳銃がダーン! と火を吹いた。男は雪の中へのぞけるように倒れた。暫くもがきながら呻いていたが、すぐ動かなくなった、たった一発であった。
 少尉は振り向きもせずそのまま歩き出した。懐の攻撃編成表をしっかりと握りしめながら……。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita