【登録 2003/02/11】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

五十二、その前夜


 民国三十五年、昭和二十一年の元旦が明けた。夜来からの雪はやんで、あたり一面の雪景色に明るい陽射しが照り映えていた。
 生き抜いて新しい年を迎える喜びを、日本人達はささやかに祝うのだった。赤十字病院へ街の有志により酒、餅、肉など小量の寄付があり、病院では患者、職員はささやかに新春を寿ぐのであった。
 だがその喜びの中で、早くも不吉な知らせが彼らの上に訪れた。清真寺から二丁ほど離れた路上で日本人が射殺されているというのである。その男は日系工作員で内海という名であった。中共の走狗、同胞を売る男、そういう汚名の下に同じ日本人の手で殺されたのだろうと噂された。
 昨夜、佐藤少尉に一発の下に射ち殺されたあの男だとは誰も知らなかった。一月六日、赤十字病院は突如中共軍が強制接収した。重症入院患者十五名を残す以外の軽症患者は、各区の居留民会に割当配布して預けさせられた。
 この日から東北人民自衛軍第一病院と改称されて、名実ともに中共軍管下に入り、中共軍患者だけの診療を開始した。
 朝鮮人民義勇軍の二ヶ分隊が病院の警備のため常駐してきたが、翌日増員して一ヶ小隊に増強された。彼らの我々日本人に対する態度は傲慢で目に余るものがあった。柴田大尉は腹心の部下と共に、強い憤りをじっと我慢している日々であった。

 その後佐藤少尉達の奔走も空しく、決起の時期はまた延びた。予定していた十五日に先立つ十日の夜、全市にわたって大検挙が行われたからである。検挙はこれまでにない大規模なもので、中共糾察隊、警護隊、工作隊が共同して、通化在住の旧通過化省、市、県公署の首脳官吏、居留民会、日解連の幹部などにわたり約百四十名の日満人が一網打尽となった。
 日本人、中国人の中に巣くう不穏分子の一掃を狙う中共軍の緊急処置であった。幸か不幸か、この中からは寺田山助を除くと反乱派の首脳はほとんど洩れていた。だがその余波を受けて決行が一旦中絶したのも事実であった。決起の日はこうしてまた延びた。
 熟慮の末、藤田大佐は二月三日の未明に断行と決定した。その日は旧暦正月元旦に当たっている。中国人は盛大に旧正月を祝い、爆竹を鳴らし春連を張って徹夜の餐宴を張る習慣がある。その虚を突こうという藤田大佐の作戦なのだ。
 決行の日が目前に迫った一月二十一日、先に一斉検挙された日本人、中国人百四十名のうち、罪状の決まった四名が、渾江の河原で銃殺刑に処されるという事件があった。川内元通化県副県長、室井元鉄道警護長など四名の日満人に、重大政治犯という烙印が人民裁判によって押されて銃殺刑が言い渡されたのである。結氷した渾江に夕日が赤く映える中で、四人は銃声とともに血に染まって倒れた。
 こうした騒ぎの中に、その前夜の二月二日が訪れてきた。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita