【登録 2003/02/14】  


ああ……悲劇の通化暴動事件!

五十三、「山田参謀」の腹芸


 そのころ、反乱軍の総帥藤田大佐は既に清真寺の離れから、ひそかに作戦本部を栗林家へ移していた。二月二日、その朝はどんより曇った空が重く垂れ込め、今にも雪が舞い落ちてきそうな暗い、不吉な思いのする日であった。中国家屋を改造した栗林の家の居間で、藤田大佐は渋い茶を啜っていた。
 いよいよ今日の日が来た。この夜のうちに隠密裏に行動を起こし、明朝未明を期して一斉攻撃が開始されるのである。

「栗林のばあさん」の愛称でみんなから呼ばれている章子夫人が、その藤田大佐の側につきっきりで何かと親身の世話を焼いていた。
 そのとき、表戸を叩きながら、「ばあさん! ばあさん!」と呼び声が聞こえてきた。そして、「俺だ! 俺だ!」という聞き馴れない声が大佐の耳に入ってくる。瞬間、大佐はさっと身構えをした。夫人が、「早く!」と目くばせして知らせると、大佐はさっと立ち上がって奥の部屋に入り、そこから段梯子を伝わって身軽く屋根裏へ姿を隠した。そこが大佐の作戦室兼居間なのであった。
 それを見すましてから夫人が戸を開けて見ると、工作員の山田参謀が立っていた。夫人は思わずドキリとした。その姿を尻目にかけて、山田参謀が無言でヌウーッと入ってくると、酒の匂いがプゥーンと狭い部屋に流れた。
「まあ! 朝っぱらから飲んでるんですか?」日ごろ、親しい仲の夫人が、その日はまたことさらに愛敬を振り撒くと、「ばあさん、酒をくれないか!」と言うのであった。
「ばあさん、俺の気持ちがわかるか? 上手くいくと思いながら、みんな外れていくんだよ。なー!」そして部屋の中をジロジロ眺め見渡しながら、「大変なことになるぞ! このまま進んでいくと、今に通化中の日本人が皆殺しにあうようなことになる!」と言うと、急に口調を変えてズバリと言った。
「ばあさん! 藤田参謀はどこにいるんだ?」
「どこに、どこにだって、私は知りませんよ!」夫人がドギマギするのをジロリと冷たい目で見ながら、いきなり彼は腰の拳銃を引き抜いた。そして銃口を天井に向けると、「ダーン!」と一発ぶっ放していた。
 さっと血の気を失った真っ青な顔の夫人を暫く見つめていたが、やがて、「ハ、ハハハハ、ハハ」と虚ろな笑い声を残して彼は立ち上がった。そしてそのまま玄関へ歩いていく。
「知っているのだろうか?」「拳銃を撃ったのは何のためなのだろうか?」夫人はじっとその場に立ち尽くした。
 栗林家を出た山田参謀は、まもなく中昌区の居留民会事務所になっている高遠貞三の家へ姿を現わした。
 高遠と向かい合った彼は、今度はしんみりとした調子になっていた。
「高遠さん! 私はあらゆる方法を尽くしたが、ここまで盛り上がってきた日本人の力を鎮圧する自信も方法もなくなったよ!」
 反乱派にくみすることができない高遠は、山田参謀の気持ちがよくわかっていた。山田は全ての情報を握りながら、それを中共軍に報告することを押えて、反乱を中止させることに必死だった。栗林の家に藤田大佐が隠れ潜んでいることも、そこで何を企んでいるのかも、彼はとっくに知り尽くしていたのである。
「私は中昌区の反乱を指導している赤川大尉と、その裏にいる憲兵准尉の二人を拘引しておけば、せめて中昌区の住民だけでも動かずにすむかもしれないと思うんだが? 私が今から二人を拘引するから、あんたが後から県長に内申して貰い下げをしてくれないか!」
「今の場合、私にはどうしろということはできませんが。しかし、貰い下げだけは必ずやりましょう!」高遠もそう答えるよりほかになかった。山田参謀は立ち上がるとまた出て行った。
 だがその夜のうちに彼自身が反乱軍に加担していたという容疑で、中共軍によって逮捕されようとは、全く思ってもいなかったに違いない。
 反乱の芽を摘もうとした彼の努力はついに空しかったのである。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita