【登録 2003/02/14】  


ああ……悲劇の通化暴動事件!

五十五、奪われた密書


 栗林家の藤田大佐は、午後四時までに、各中隊、遊撃隊、別動隊の連絡将校に、それぞれ最後の指示を終わった。
 午後八時のサイレンが鳴ると、全市は毎日通行禁止となる。表だって行動できるのはあと四時間しかない。攻撃開始までの時間にしてもあと十二時間しか残っていない。ここまで謀議を運んだ大佐の顔にはもはや昔日の面影は全く残っていなかった。いっぺんに十歳も年を取ったようで、背後から見ると頭の髪が薄くなり、まるで六十翁の姿であった。
 連絡将校は一人ずつ、散り散りになって出て行った。林少佐の航空隊からは距離が遠いのと、人目を惹きやすい恐れがあるので連絡将校は来ていなかった。例のマタ・ハリ、佐々木邦子が城外の外れの省立病院付近で、向こうからの連絡者と会って指令書を手渡すことになっていた。
「ご苦労、大丈夫か?」と藤田大佐が声をかけると、「間違いなく手渡してきます!」と彼女は答えて出て行った。
 邦子は近道をとって急いだ。満人街を抜けて行く彼女の耳には、明日の旧正月を祝う中国音楽の騒々しい笛や胡弓や太鼓の音が、追っかけるように響いてきた。
 家々の門には紅い春連が張られている。辻々では群衆を集めて高脚踊りで賑わっていた。
 雑沓する街を抜けてやっと彼女は城外の丘に出た。枯れ草を被った雪を踏んで歩いていくと、スウッ−! と若い男が丘の窪みから立ち上がった。指令書を受け取りに来た航空隊の見習士官である。二人は恋人のように顔を寄せて囁き合い、やがて女の手が伸びて男の手に白い紙片を握らせた。
 そうして二人は右と左に別れて歩き出した。そのとき、四人の男がムクムクと向こうの枯れ木の陰から現われると、二手に分かれて尾行を始めた。どこからついてきていたのか、中共の便衣工作隊員だった。歩幅を早めた二人が、まず佐々木邦子を左右から取り囲んだ。有無を言わさず一人が身体検査を始める。立っている男の手には冷たく光るコルトが握られていた。
 彼女はその場で全裸にされた。一糸纏わぬ豊かな白い肉体が、寒風に曝されてたちまち鳥肌だっていく……。
「向こうだ!」と便衣の男が叫んだ。
「男の方だ!」その男の方も航空隊の宿舎の見え始めた路上まで来て捕まっていた。格闘する暇もなかった。腹巻きの中から拳銃と、作戦本部からの攻撃編成表が引きずり出された。
 明朝未明の行動に関する詳細な指令が書かれているのだ。見習士官の口から一筋、赤い血が流れた。たちまちタラタラと滝のように何条もの糸を引いて流れ出した。掴まれた手が烈しく痙攣する、凄まじい無念の形相である。
 若い見習士官は舌を噛んだのだ!……。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita