【登録 2003/02/14】  


ああ……悲劇の通化暴動事件!

五十六、藤田大佐急襲され逮捕さる


 街はとっぷり暮れた。もう何時になるだろう。七時か、八時か。まだ九時には間があるだろうか。
 その夜、どういうものか、通行禁止の時間が来たことを告げるサイレンが、いつまでも、いくらたっても鳴らなかった。
 通化の日本人達で時計を持っている者は数えるぐらいしかいなかった。時計や写真機は命令によって没収されていたし、たまにそれを逃れた者がいても、生活に直接関係のない贅沢品として売り飛ばすのが関の山だ。
 だから朝六時の通行解除と夜八時の通行禁止のサイレンは、市民の時計代わりになっていた。それが今日に限って鳴らないのだ。時刻は既に定期の八時を回っているというのに……。
 気がつかないで歩いている日本人は片っ端から捕まっていた。はっとして見ると、街の角、広場の隅に、おびただしい数の中共兵が武装して立っている。この夜、中共軍はわざとサイレンを鳴らさなかったのである。

 ……後日談。
 田村病院に派遣されていた大野(金子)信夫職員は所用で夜間外出したとき、街中ものものしい警戒ぶりだったと話している。
「あのときは、誰でもかまわず尋問して少しでも不審だと即座に逮捕していた。私はそれを見て、道をそらしてようやく田村病院に帰った。そして病院の連中にそのことを話したら、恐らく今日は暴動の蜂起はできないし、作戦本部で中止の指令が出ているだろう」と皆で話し合っていた。……と、最近筆者に語っている。

 藤田大佐から林少佐への作戦指令が、あの見習士官から奪い取られると同時刻に、劉司令は全市にわたって既に緊急警戒を敷いていたのだ。さらにこの密書によって反乱の謀議の全容が完全に司令部に握られてしまったのである。
 大きな牡丹雪が舞い始めていた。雪は後から後から舞い落ち、もう十五センチもの厚さに積もっている。
 およそ百名ほどの一隊がその雪の中を、清真街へ向かって行進していた。清真寺を過ぎたところで三方に分かれた。そして作戦本部の栗林家へじりじりと包囲の輪を縮めていった。
 隊長らしいのが出ていって、トントンと戸を叩く、日本語で呼ぶのである。
「今晩は、今晩は!」カチリと鍵が鳴って、例の「ばあさん」が顔を出すなり、ズイと隊長が押し入った。続いて数名がドカドカと土足で踏み込んだ。
「藤田はどこにいる?」銃口に囲まれた中で夫人の顔がゆがんだ。奥から出てきた主人の栗林もその場に釘付けになった。二人とも口が利けない。
「ソウバー!」(捜せ!)と今度は中国語で鋭く命令すると、外から新しく入ってきた兵隊も交えて二十名近い数が、ドカドカと狭い部屋へ雪崩れ込んだ。
 奥の間の天井に穴を開けた屋根裏の入口がとうとう見つかってしまった。数名が梯子をかけ登っていったが、鋭い中国語の遣り取りが聞こえ、暫くすると拳銃に取り囲まれて藤田大佐が姿を現わした。
 逃げることもできず?……抵抗することもできず?……その余地もない急な襲撃だった。
「ダ、ホーリョー! テンユウラ−!」(田友を捕まえたぞ!)兵士達が興奮する中で、逮捕されて出て来た藤田の顔面はさすがに血の気が引いて微かに引きつっていた。
 その姿を見ると、主人の栗林が急にばったりと畳の上に音を立てて崩れ落ちた。みるみる死相が彼の顔に浮かんできた、用意の青酸カリを呷ったのだ。
 章子夫人にはただちに縄がかけられた。
 藤田大佐がこうして逮捕された時刻に、国民党の孫耕暁、姜際隆、劉清字などの国府側指導者も、全てそれぞれの住居で逮捕されていた。あの山田参謀さえもが……。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita