【登録 2003/02/16】  


ああ……悲劇の通化暴動事件!

六十二、敗残兵の道


 通化の街を遠く見下ろす峠の上で、六十名ほどの日本人が茫然と立っていた。病院を脱出した柴田大尉指揮下の第一中隊の兵達である。
 暗灰色の硝煙がまだ街の空を覆っている。ここから見れば一面の銀世界だが、どれだけの人間がそこで死に絶えていったことだろう。
「国府軍との連絡は取れなかったのですか?」凝然と立っている柴田大尉に、部下の一人が問う。
「こうなってみれば、取れなかったというより仕方がなかろう!」大尉の顔は苦渋に歪んでいる。
「通化の日本人に対して、本当にすまない結果になってしまった。だが、この場合、日本人として、こうする以外には生きる道はなかったのだ!」そのとき、連日の疲労で消耗しきっていた小島義人が、ばったりと雪の上に倒れてしまった。駆け寄った大尉が膝の上に小島を乗せ、腰の医療嚢から注射器を取り出して、カンフルのアンプルを切り始めた。
 はらはらと熱い涙が大尉の目からこぼれ、小島の汚れた軍服に落ちた。それを見て、みんなは初めて泣いた。
 そして敗残兵は行軍を続けた。その夜は山中で野宿をしたが一睡もできなかった。ただ内地帰還の夢を語らいつつ雪の上に身体を休めた。

 次の日の四日、柴田隊は通化から一里離れた山中で解隊して野戦病院を解散した。六列縦隊に整列して、松淵准尉の号令で、「隊長殿に敬礼。頭、右!」と注目の敬礼が行われた。一人一人の隊員の顔を覗き込むようにして、長い答礼をした大尉が手を下ろした。
「直れ。休め!」大尉は沈痛な声で最後の訓辞をした。
「諸君は本日まで、菲才の柴田を助け、よく任務を遂行してくれた。諸君に対し、柴田は心から謝意を表するとともに、かかる事態に立ち至った責任を痛感し、本当に申し訳なく思う!」と言葉を切った。暫くして言葉を改めて、「我々は大元帥陛下の最後の御命令を奉持して患者の診療に当たってくるも、本日限り任務を終了する!……祖国再建のために、一人でも多く生き延びよ!」と決別の訓辞は終わった。
「ただいまから、宮城遥拝と大元帥陛下万歳三唱を行う!」と最後に全員が東方に向かって皇居に最敬礼した。そして、「天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!」と三唱した。寒風の中で頬の涙が凍りつくようだった。
 敗残兵は朝鮮へ(保志名、宇佐見、吉田利、高田、内田、玉城、松尾、渡辺、西畑、小林一、伊藤、岡野、寺田)、安東へ(藤本、平井、紺田、〓島、高桑、松淵、進藤、土肥、岩井、多田、山本、鈴木、戌亥、新谷、児玉、大野、小倉、菅原、金谷、内藤、橋本、青木、福若、須崎、森実、平賀、岡村、三浦、黒木、野沢、武石、早田、中田、九合、柏倉、吉田、小田、児島、森繁、柳原、村井、古山、千葉)、奉天へ(柴田、佐山、小島、北、三宅)、そうしてもう一度通化へ(斉藤、高橋久)、それぞれの道を辿って落ち延びて行くのだった。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita