【登録 2003/02/16】  


ああ……悲劇の通化暴動事件!

六十三、反乱失敗


 恐怖の一夜が明けた。旧暦元旦の朝である。めでたいはずであるその日は、血に彩られた業苦の日であった。降り注ぐ陽光の下には、踏みにじられた雪が無惨な軍靴の跡を止めていた。そして街中いたるところに、おびただしい死体が雪を染めて転がっていた。
 街の中央部から左へだらだら坂を上がって行く途中、旧省公署跡の専員公署、それに続く旧竜専ホテル跡の中共軍司令部に到る路上が、最も多くの死体を残していた。
 佐藤少尉指揮の第一中隊、阿部大尉指揮の第二中隊の人々の死体であった。反乱は完全に失敗に帰したのであった。潰滅的な打撃が反乱軍に加えられた。
 この日の戦闘で反乱軍が受けた被害は、第一中隊長佐藤少尉はじめ、戦死者の総数は二百名を越えていた。重軽傷の数はさらにそれを上回るものであった。
 総帥藤田大佐、孫耕暁らの首脳は反乱前にことごとく逮捕、行動派の首謀者もほとんど戦死して、中共側は見事に通化市の治安撹乱を図る不穏分子を一掃することに成功したのである。
 朝鮮義勇軍李紅光支隊は、暴動の反対者で暴動を未然に防ごうと二日の午後から深夜にかけて走り回っていた通化省立病院院長奥田先生を、家を出たときからつけ狙っていた。そして暴動の起こるやいなや逮捕もせず、問答無用とばかり背後から射殺したのであった。
 赤十字病院の第二中隊の松倉大尉以下も、第一中隊とは別になって行動していたが、やがて通化を約六キロぐらい離れたところで解隊して、三々五々で各方面に散って行った。
 硝煙が漂う街角に立って、日本人達は真っ暗な前途を思った。
 ……どうなるのだろう。これからの自分達はどうなるのだ……その疑問はその場で解かれた。恐ろしい解答が中共軍によって提出されてきたのである。それは「報復!」であった。苛酷極まる手段がそのために行使された。
 早いところでは午前七時、遅いところでも午前八時までの間に、興奮した中共軍の兵士が日本人の家を一軒一軒、片っ端から叩き起こして歩いた。
「日本人は全部外へ出ろ!」出てしまうと、男だけを一塊りにした。さらに十六歳以上から六十歳までの者が一個所に纏められた。その数は全市で三千名以上に達した。その場で彼らは逮捕されたのである。事件に関係した者、しない者を問わず、日本人である以上はことごとく同罪であった。
 街という街から、日本人の死の行進が始まった。寝込みを襲われて着の身着のままもあった。恐怖に引きつった顔が目白押しに並んで歩いて行く。その後ろ姿へ子や妻が泣き声を上げて呼び続ける。引かれて行く途中で、早くも雪の中へぶっ倒れたまま動かなくなる者もいた。拷問が拘引と同時に始まっていたのだ。
 ある行列では全員を後ろ手に縛り、それを数珠繋ぎにして追い立てて歩かせた。中には寝床の中から連れ出された病人もいる。それが脚を取られてよろよろと雪の上に倒れかかると、前と後ろの十人くらいがバタバタと雪の上に将棋倒しになる。起きようと必死になってもがいている上へ、「早く起きろ!」と軍靴が顔や胸に飛ぶ。小銃が振り回される。銃の床尾板で力まかせに殴りつける。頭を殴られ、ガッと鈍い音がする。血に染まって倒れたまま動けなくなった者は、綱を引き切ってそのまま捨てていかれた。
 ある行列はまっすぐ手を上げさせられたまま歩いて行く、ちょっとでも手が下がってくると、たちまち棍棒が唸る。手袋もはめずに宙に上げた手からは血が逆流して、みるみる青白い透き通ったような色になってくる。その朝は零下二十度といわれていた。青白い手はやがて紫色に変わる。恐ろしい凍傷の症状がもう始まっているのだ。
 三千名を超える行列は、こうして専員公署、司令部、県大隊など、それぞれ地区によって指定された場所へ、「死の行進!」を続けて行った。
 その行く手には筆舌に尽くせない地獄の恐怖が待っていた。行列の列は専員公署へ百八十名、満電寮へ三百名、旧憲兵隊監獄へ百八十名、県大隊へ三百名、公安局へ四百名、というように吸い込まれて行った。司令部横の防空壕へも三百名、民衆病院横の防空壕へも二百五十名が入れられた。
 いわゆる「通化事件!」の悲劇は、これらの場所において演ぜられたのである。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita