ああ……悲劇の通化暴動事件!
六十四、わずか八畳の部屋の中へ百二十人
日本人が投げ込まれた地獄図絵の様々を、辛うじて生き残った体験者の話を抜き書きしてみよう。元通化高等女学校校長、元通化在郷軍人会会長片岡語咲氏は専員公署監獄に留置された。
ここは佐藤少尉達が日本人投獄者を奪還するため斬り込みを行って全員戦死、さらに獄内の寺田山助達が機銃掃射と手榴弾を投げ込まれて非業の最期を遂げたところである。中共軍はここを大急ぎで水洗いして、新しい日本人投獄者を収容したのであった。それでもまだ壁といわず天井といわず、生々しい肉片や血痕が一面に飛び散っていた。
留置されたのはなにしろ三千名という大量なので、監禁はあらゆる空き部屋、防空壕、穴倉、倉庫、果ては馬小屋などを利用して行われた。
その馬小屋では省立、田村病院と司令部へ派遣されていた、野戦病院の職員が二十五名監禁された。
午前八時に診療室に集められ、小銃を持った小隊に包囲され逮捕された。後ろ手に縛られ数珠繋ぎにされて、連行され馬小屋に監禁されたのである。なにしろ馬小屋なので窓にガラス戸がない、入口も扉がない、まるで開けっ放しの土間の小屋である。ただ馬草が出されずそのまま放置されていた。彼らは、「せめてもの情けだ。枯れ草は布団代わりにしろ!」と言って嘲笑っていた。馬糞がそのままである。臭いのだ、大変臭いのだ。そこでは監視兵が一個排(小隊)いて昼夜交替で厳重な見張りをしていた。
ここで久村信春職員を言葉遣いや、態度が憲兵のように悪いといって、また藤田栄職員を態度が横柄で姓が「藤田参謀」と同じ「藤田」だというだけで、その二人を散々殴りつけた。痛みに耐えているのを、それも反抗しているとのだといって、まだ取り調べも始まらぬ前に、庭に引き出して銃殺してしまった。
紙田職員などは……。
監視衛兵の王班長が、以前発疹チフスで省立病院の内科病室に入院していたとき、連日高熱を出していた。夜間、紙田職員が巡回診察に行ったとき、王があまり口渇を訴えるので、哀れに思いその部屋ストーブにかけてあった薬缶の湯を、熱くては飲めないだろうと、わざわざ親切心で洗面所の水道で冷やして飲ませてやった。それが中国人の習性(生水(冷水)は飲まず、必ず熱い湯(開水)を飲むこと)を知らずに、湯を冷やして水の温度に下げて飲ませてやったのを、「水道の生水をそのまま飲ませて、俺を殺すつもりだったのだ!」とのとんでもない誤解からくる個人的な怨恨から、その仕返しに針金で後ろ手に縛られ、さらに天井の梁から吊されて、小銃の床尾板で散々殴られたあげく、「お前は、必ず銃殺にしてもらってやる!」と脅かされたが、当時は中国語のわからない、また話せない紙田職員には何が何んだかチンプンカンプンである。
一緒に留置されていた、中国語がわかって上手に話せる石橋健職員に頼み、彼の流暢な中国語の説明で、ようやく銃殺だけは免れた。
しかしすっかり重罪犯人? と認定されて、その後、太い牢格子のある重罪人監獄へ移され、足枷を嵌められて死刑被告人達と三週間も同じ獄舎に留置された。
その獄内で首謀者の一人の赤川大尉と何となく気が合って親しくなっていた。私と彼は今度の暴動事件について、いろいろ話し合っていたが、彼、赤川大尉は、「私は今度の暴動決起に首謀者として参加したのだから、銃殺されるのは覚悟している。しかし通化の日本人の方々に良かれと思ってしたことが、逆になってしまった。本当にすまないことをしたと思っている」そして彼は、さらにこんな疑問点を話した。
「この暴動事件は、前々から中共軍と、中共軍によって洗脳されて中共スパイになった藤田
『田友』と、二重スパイの孫達の仕組んだ罠で、我々がまんまとその罠にはまったのではなかったかと考えている。元日本軍の参謀が暗号文を使わずに、普通の日本語で指令文を書くなど、私にはとても考えられない」としみじみ話していた。彼、赤川大尉は福島県会津の出身で陸軍士官学校出の若手将校であった。故郷の「会津の白虎隊」を誇りにしていた純真な若者だった。
留置場にはどんな狭いところでも半坪、一坪でも余裕があれば二十人、三十人と押し込んだ。先ほどの片岡校長が投獄されたのは、八畳の旧日本間の畳を上げたところであった。ここに百二十名という日本人が押し込まれたのである。
初めの八十名はなんとか入ったが、残りの四十名はなかなか入らなかった。それを中共兵が背後から容赦なく銃の床尾板で殴りつけ、軍靴で蹴り、無理算段して全員が入ってしまったときには、息もつけない状態であった。最後の四十名が入るのに三十分もかかったのである。押し込めると外からガチャリと鍵が掛けられた。数名の番兵がついたまま、その日から五日間、満員の立ちん棒生活が始まった。
大小便はもちろん垂れ流しである。悪臭がたちまち立ち込めた。その日遅くなってコーリャンの握り飯が一つずつ配られた。身動きもできない中で、長い時間をかけてどうにか食うことができたが、人間と人間の間に握り飯が挟まれたのを取ることもできず、とうとう口にすることができない者もいた。
水は最後まで与えられなかった。窓際にいる人達は凍った窓ガラスを嘗めることで渇きを癒すことができた。手と口で溶かして手が届く範囲の人へも嘗めさせてやった。真ん中にいる人達にはそういう恩恵は巡ってこなかった。
だが夜になると窓際の人々は酷い寒風に襲われた。窓の方の耳が先ず感覚を失う。頬の知覚がなくなる。そうして皆んな凍傷にかかっていった。
死ぬ者が出てきた。凍死と餓死である。隣の男がもたれかかってくるので、うるさいなあと思ってひょいと見ると、目を開いたままで死んでいるのである。
「死んだ!」と叫ぶと百二十名の人間がザワザワと薄野のように波を打つ。この次に死神に見舞われるのは自分ではないかという恐怖が襲ってくる。突然、「うわあっ!」と叫ぶ者がいる。「うわあっ! うわあっ!」と歯ぎしりしながら叫び続ける。いつの間にか彼は狂っているのだった。
「出してくれ!」「苦しい!」と口々に叫びを上げる。その騒ぎの中へ突然、扉の上の小窓から、ダダン! ダーン!と銃弾が打ち込まれてきた。やがて硝煙が薄らぎ、恐る恐る頭を持ち上げた人々は、自分達の仲間から三人の人間が射殺されていることを知るのだった。騒げば殺される。死人が出ても病人が出ても受け付けてくれぬ。
立ったままの足の痛みに耐えかねて、潜り込むように膝を曲げていた男は、そのまま永久に頭を上げてこなかった。自分の力では立てなくなって、そしてまた力を貸して立たせてやることもできなくて、その男は皆んなの下敷きになって死んでいるのである。一人死ぬとそれだけ楽になった。死んだ者の上に周りの者が立っている。死人は踏まれて板のように平べったくなっていく。
五日目から取り調べが始まった。一人一人が引きずり出されて、反乱軍との関係の有無を尋問される。ぐるりと取り囲んだ兵隊が、口よりも先に帯皮や青竹をビュンビュンと振るった。その悲鳴と骨に鳴る音が、留置場へ手に取るように聞こえてくる。尋問を受けて言葉に詰まったり、反抗的な身振りを示した者は全身をささらのように打ちまくられ、血に染まって動かなくなった。すると戸外へまるで荷物のように放り出された。
まだ生きていて息のある者も、激しい寒気の中でそのまま凍死していた。窓から見える庭では、凍死して硬直死体を鳶口で引っかけて運んでいく。凍りついた土の上をカラカラと氷を運ぶような音を立てて死体が滑っていくのである。
一週間目ごろからぼつぼつ釈放される者が出始めた。満足な身体をして帰って行く者は一人もいないのだった。やっと取り調べが終わって全員が釈放されたとき、初めの百二十名は九十名足らずに減っていた。一同が出はらった八畳の板の間には、銃弾を受けて死んだ三名と、凍死、餓死、病死で非業の最期を遂げた十二名の死体が残されていた。十五名の死体はどれもこれも踏み砕かれて、まるで煎餅のように平たく横たわっていた。
そして残りの十五名はどこへ連れ去られたのか、遂に姿を現わさなかった。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11