ああ……悲劇の通化暴動事件!
六十五、死の拷問
朝鮮義勇軍李紅光支隊の留置場(旧奉天商工銀行の地下室)に入れられた投獄者は、日本帝国主義の権力と謀略で祖国を併呑された恨みと、今度の反乱で朝鮮人兵士が殺されている憎しみ、仇打ちの心づもりで取り扱われた。
元通化鉄工社長、中昌区難民救済所長宮川梅一氏の場合は、さらに悲惨でスリルに富んでいる。
宮川社長はそれまでに六度投獄されている。六度目は例の山田参謀の尽力で事件の前日に釈放され、たった一夜を明かしただけで、その翌朝は七度目の投獄が待っていた。綿入れの中国服を来て後ろ手に縛られて李支隊へ入った。
途中で行列の中に面倒を見てやったことのある何人かの脱走兵がいて、疲れた青い顔で目で挨拶をしてきた。事件に加わった人達だ。
留置場の入口には両側に四人の兵隊が立っていて、入っていく日本人の一人一人を、力にまかせて太い薪で殴りつける。二人が頭、二人が足を殴るのである。薪はコブだらけの二握りもある大きなもので、入ってくるたびに力まかせで殴りつけるのだから、日本人達はギャッという異様な悲鳴を上げて、ぶっ倒れたり転がり込んだりしながら留置場へ投げ入れられていく。
宮川社長は柔道と相撲の心得があった。兵隊が薪を振り下ろす瞬間に、「ウワッ!」と叫んで受け身の要領でもんどりうって転がり込んだ。それでも背中をしたたか打たれたが、他の人達に比べるとものの数ではなかった。
コンクリートの地下室には、足が折れ手が折れ、頭を割られて血が吹きでているような人達で一杯になっていた。その場で即死した者が二十名もいたのである。
関川という人は頭をやられ、宮川社長にもたれたままで苦しんでいたが二時間も経ったころには意識不明に陥った。兵隊に手当てを頼むと外へ連れ出していったが、その後、便所の前の空き地に全裸のまま放り出されて凍りついて死んでいるのを、宮川社長は見た。
形容のしようのない悲鳴がやがて地下室へ聞こえ始めた。尋問と拷問が始まったのである。その声は人間の声とも思えぬ異様な叫びであった。
恐らく拷問の果てに思わず上げる死の直前の叫びであろう。あまりの辛さに耐えかねて反乱参画を自白した者もいれば、心ならずも、「やりました!」と虚偽の陳述をする者も出てきた。
やっと疑いが晴れて血だらけの顔をして帰ってきた者も、傷をしたところから凍傷にかかり、やがて死んでいくのだった。
宮川社長は二時半ごろになって呼び出された。彼はこれで七度目の連行、入獄であったから、初めての人に比べれば案外腹は決まっていた。
だが一歩取調室に入ってみると、見るも無惨になった日本人が四、五人コンクリートの床に転がっている。目を凝らして見るとそのうちの一人は明らかに死んでいた。はっと胸を突かれて息を呑む宮川社長の顔を見ながら、兵隊が白状せよと迫ってきた。
取り調べは初めは腰をかけたままで行われた。二ヶ月間も投獄されていたのだから何も知らぬと答えると、いきなり野球のバットで背後から七、八回殴りつけられた。鈍い音がしてバットが根元から折れた。
再び尋問が重ねられた。何の理由で投獄されていたかというので、財閥清算によるものだが、山田参謀が証人になって出獄したと答えると、立たされて蓆の上に腹ばいにされた。
彼は山田参謀さえも、反乱軍加担の疑いで検挙されたことを知らなかったのである。薪が振り下ろされた。前よりもさらに激しかった。柔道と相撲で鍛えた身体はよくそれに耐えた。
やっと帰されてくると、ほとんどの人が殺されて、帰ってきていないことを知った。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11