ああ……悲劇の通化暴動事件!
六十七、日本人の末路
このような生きながらの地獄図絵が、日本人三千名の上に見舞われていた。市中での日本人探索も厳しかった。
一週間目ごろからぼつぼつ釈放者が出てくるようになったが、その人達の姿を迎えて、妻や子は声を上げて泣いた。
……杖にすがってやっと戸口を跨ぐ者、折れた手をブラブラさせて帰る者、凍傷で手や足の指が壊死を起こしている者、家に入るなり一時に発熱して譫言ばかり口走る者、それでもこの人達は地獄から生きて帰ることのできた人達であった。戦闘による戦死者を除いて、その後の死者の数は実に六百名に上ったのである。
逮捕直後や連行途中に虐殺された者、逮捕後反乱に参加の事実を自供したり、あるいはさせられたことによって銃殺刑に処せられた者が約三百名で、この中には女八名も入っていた。
元憲兵であったり、警察官であったことによって射殺された者も百名に達している。
そして留置場では取り調べ中の拷問で虐殺された者、凍死、病死した者は約二百名もの多きに達していた。
拷問の結果、不具になったり、凍傷で廃疾者となった者も三百名。軽い者を入れると五百名にも上っている。満足な身体で帰ってきた者はわずかだった。
これら死者はそのうちの約四百名が中国紅卍会の裏庭の防空壕に投げ込まれた。残りの二百名は通化橋下の渾江の凍結した河面へ投げ捨て去られた。
それが、反乱の後に来た日本人の末路であった。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11