ああ……悲劇の通化暴動事件!
六十八、「英雄?」のなれの果て
藤田大佐はどうなったのだろう。あの誤れる英雄?「田友」は……彼はもう一度、その姿を日本人の前に現わした。見る影もない哀れな姿となって!
通化の街にも冬の去る二月二十八日。無罪の日本人は一斉に釈放された。
紙田職員も、元日本の大学へ勉学に行っていたという陳通訳の取り調べが、二十六日にあった。そのとき例の王班長の、「開水、冷水問題!」を話したところ、聞いていた陳通訳は笑い出して、「本当は王さんは貴方に感謝するべきでしたのに、大変酷い目に逢わせましたね。しかし異国に生活するなら、その国の習慣を知ることも、またその国の言葉、中国では中国語をマスターしなくては生きていけませんよ。私が日本語を勉強したとき使っていた本ですが差し上げますからよく勉強して下さい。二人はお互いに知り合いになったのですから、これから何か困ったことがあったらいつでも相談にきて下さいね。私は必ず相談に乗りますから」と言って、一冊の語学学習(彼が日本語を学習するとき使った中国語文)の本をくれて、早速、無罪釈放手続きを取ってくれた。
その日の通化の空は抜けるように澄み切っていた。街の広場に釈放者一同は集められて、陳中共軍政治委員から全員無罪で釈放することを宣言された。
それに引き続き日本人の民族政治幹事の杉野一夫(杉本一郎)が中央の壇上に立ち、「皆さんは今日で無罪釈放されました。これは一重に中国共産党の寛大な処置であります。日本帝国主義が中国を侵略して、中国人民に対して犯した罪は計り知れないものがあります。今度の暴動も本当は通化の日本人が全員殺されても仕方がなかったことです。中国人民、中国共産党に深く感謝して、今後は中国解放に協力していただきたい!」と我々に訓示した。
これで無罪の者は全員牢獄から釈放された! いや解放されたのだ! 赤十字病院の職員の、連日の拷問ですっかり痩せこけた海野耕蔵君も、取り調べ中に同じ拷問で額に大怪我をさせられた清水憲太郎君もいた。
紙田職員は逮捕前に派遣されていた元の職場の省立病院へ立ち戻ると、中共幹部(銃殺された奥田院長の後任である中共軍医の院長)の命令だと、衛兵に病院内への立入を禁止された。
仕方なく元の宿舎に行くと、畳、床板を剥がされ、床下の土まで掘り返されていた。もちろん衣服をはじめ写真、金銭とともに、医学書籍、薬品、医療器材、聴診器等は全て没収されて、何にも残っていなかった。
赤十字病院は事件後はもちろん存在していない……。
帰る場所が……ない。寝る宿舎は……ない。自分の持ち物は……ない。食べるものも……ない。金も……ない。仕事は……ない。全く身の置きどころが……ないのである。
ないない尽くしの完全な無斎人間になってしまっていた。はたと困り果てて陳通訳に相談してみることにした。陳通訳は快く相談に乗ってくれた。そして仕事探しを引き受けてくれた。
「それはお困りでしょう。ここで暫く休んでいて下さい。今すぐ探して上げますから」と言って部屋を出て行った。
そして各方面を当たって紙田職員の仕事を探してくれたのだった。暫く待っていると陳さんは部屋に立ち戻って来た。そしてニコニコして紙田職員に、「今、方々を探してきました。貴方のお仕事にピッタリのところが都合よく見つかりました。今度、柳河市に新しい軍病院を建設中なのです。その新病院の医療要員、軍医や衛生兵、看護婦やその他の医療関係人員を募集するために、その新病院の任院長と粛政治委員達がちょうど昨日から通化に来ています。任院長は私の大の朋友です。ただいま、私が紹介状を書いて差し上げますから、すぐそちらへ行って、それに応募してみて下さい。軍医は採用試験がありますが、中国語でもドイツ語や英語でも、また日本語でもいいそうです!」と説明をしてくれ、親切に紹介状とその試験場の図面まで書いてもらった。
任院長、粛政治委員に面接して紹介状を渡して、早速軍医の採用試験を受けたのであった。
ペーパテストは日本語とドイツ語、英語、中国語の自由選択ができたので、都合がよかった。問題は外科診断と治療、手術に、内科は診断治療の問題が多く出されていた。日本語とドイツ語のチャンポンで全部簡単に解答ができた。
それが終わると次は任院長の面接口頭試問であった。陳通訳の紹介が良かったのか、ペーパーテストの成績が合格ラインを越えていたためだったのか、面接テストでは筆談を交えてくれるほど好意的であって、またその間は終始好感を持たれていた。
全部試験が終わると即時合格が決定して、紙田職員は外科軍医として採用されることになった。
そして宿舎は院長や政治委員の宿泊している通化随一の大飯店(中国旅館)に今晩から宿泊するように決められた。その日採用決定してその夜から同宿した日本人は、紙田軍医と松本正雄外科軍医夫妻と紙田外科軍医の愛人? の看護婦の斉藤光子の四人であった。
愛人? の斉藤光子看護婦の採用が決定したのは、面接試験の控え室での松本軍医の頼みで、任院長、粛政治委員に採用決定後、私の愛人?(中共軍では恋人、妻は「我的愛人」(オーデー、ナィレン)と呼称していた)として同時に採用してもらった。松本軍医の頼みの話の内容とは、「斉藤光子は松本医師と同じ中国人の老爺の開業医師の許で、終戦後生活のため働いていた。しかし中国老爺の医師は彼女が若くて可愛い美人なのに目をつけて、「俺の妾になれ」(ニー、オーデー、ダン、タイタイバー)と毎日責めたてていた。それを斉藤光子は嫌い、松本医師に相談して来ていた。何とかそのことから逃れさせてやりたいから、頼める人を探していた。元野戦病院(赤十字病院)におられて、今度私と一緒に採用された貴方と結婚しているといい、中共軍の軍病院に夫婦として採用させたい。無事採用されれば彼ら民間中国人は手が出せない。独身の貴方ならそれができるので、一人の日本娘を助けると思ってお願いします」との切なる頼みで、私の愛人(妻)? ということにして、任院長に話して頼み、看護婦として同時に採用されたのであった。
そして三月に入った。やがて通化の街にも暖かい風が吹き始めた。三月十日から、市内目抜きの繁華街にある玉豊厚百貸店で、「通化事件戦利品展覧会!」が開かれた。中共軍軍司令部から市民は洩れなく参観せよという布告が回ってきた。
その店に出かけて行った人々は、戦利品とともに、「英雄?」……藤田のなれの果てを見て息を呑んだ。
二階売り場を潰して日本刀の刀身だけ(鞘もなく、鍔や柄のない抜き身)や小銃の銃身だけ(床尾板もなく、銃蓋の木製部分もない)、拳銃、スコップ、竹槍、棍棒などが並べてあった。反乱軍の人々のかつての武器である。また作戦本部から航空隊に渡すはずの攻撃編成表(暗号文ではなく、誰でも読める日本語文で書いてある)も陳列されていた。
その戦利品の中央に、元関東軍第一二五師団参謀長、陸軍大佐藤田実彦が立たされていた。その横には国民党通化党支部書記長孫耕暁が並んでいた。
藤田大佐は栗林家で逮捕されたときそのままの黒い木綿の粗末な中国服を着ていた?……。
これほどに変わるものかと思うほど、彼は変わり果てた姿を人目に曝していた。あの豊かな髭はもちろんない。しかしげっそりと肉の落ちた頬から顎にかけて、伸びかけた髭が覆っていた。その中には銀のように光る白いものが目立つのだった。痩せこけた身体は見るからに弱々しく、まるで別人を思わせる六十歳を過ぎた老人の姿であった。あの豪快で堂々としたかつての彼の姿は、今はどこにも欠片ほども見えなかった。まるで別人のロートルの中国人のようである。その彼は人々に向かって、頭を下げ、そして呟くように言うのだった。
「ティブチー、ティブチー」。
また、こんなことも言っていた。「すみません、申し訳、ありません。すみません、申し訳、ありません」ボソボソと片言のような日本語で……。
反乱軍の死者二百、その結果の犠牲者六百、それによって日本人にもたらされた数限りのない不幸……。
彼はその日から三日間、朝から夜まで、その店で頭を下げて謝っていた。過ちを犯した者は衆人の前で謝罪する。それは恥を知る人間にとって最大の罰法である。そういう中国の道徳観によって、「田友」は罪滅ぼしの三日間を送った。
まもなく中共監獄の独房で彼は高熱を出した。そして唯一人寂しく死んでいった。病名は急性肺炎であったとか。死んでなお、彼は衆人の前に曝された。中国式の舟の形をした棺に入れられると、「通化事件首謀者田友! 之霊」と墨書されて、市内目抜きの大通りに飾られた。十日後、彼はようやく埋葬された。
同じ中共監獄に入れられていた高遠貞三達五人の日本人が使役として指名された。その五人が棺を担ぎ、兵隊に守られて玉皇山の裏山に土を掘って土葬した。
遺髪も爪も残すことを許されなかった。墓標を建てること、土饅頭を作ることもできなかった。
ただ咲きそめた迎春花の一株と、連翹の一枝とがそれとなく置かれただけであったという。
柳河市に建設中だった新病院は三月十五日に完成した。……続々と別の宿舎に集められていた人員と、翌十六日に全員が柳河市の東北民主聯軍第一後方軍医院(中国の医院とは日本では病院のことである)に集合した。
その中にかつての野戦病院での同僚職員、土肥内科軍医、横田百喜、緑川の外科医務助手夫妻、篠原職員等の顔ぶれがあった。
関東軍東寧陸軍病院外科主任の竹崎元軍医大尉(医博)、通化省立病院に勤務していた井筒、堤内外科医師の両夫妻、通化に潜伏していた斉藤元軍医中尉、岩井医師達が採用されて来ていたのである。
特異な採用者に航空隊の飛行操縦士が数名雑役員として採用されてあったのには驚いた。通化事件の犠牲者で両手の指が凍傷で全部喪失していた坂田夫妻も雑役員として採用されていた。(凍傷の坂田夫妻は長春「新京」で逃亡した)
この第一後方医院は柳河、梅河口、長春、鉄嶺、四平、長春、ハルピン、ジャムス、鶴岡と転戦移動して、やがて中国医科大学付属病院となった。
その途中で人材の確保(医師、教授、技術者など)や、膨大な医療器材、薬品、教育資材、印刷資材を大量集積していた鶴岡炭鉱病院を基幹に医科大学校が創立された。
初代学長は華北から来た東北民主聯軍軍衛生副部長の王賦外科軍医であった。紙田外科軍医は中国医科大学では、陳通訳から貰った中国語学習の本で必死になって勉強したので、短期間で中国語が著しく上達し進歩していた。すっかり上手に聞いたり話せるようにマスターしていた。
中国医大付属病院の外科臨床の教授の竹崎、松原両博士の助教と通訳をも兼任していた。
……さて「通化暴動事件」の関係者のその後の消息。
宮田早苗……藤田大佐を脱出させたあの女性は、事件の後で李紅光支隊に逮捕されたが、女性なのと看護婦だというので、事件に関係なしと決められて、その後支隊に採用されて、留置人の食事の世話をしたり、負傷者の手当てをしたりしていたというが、今は日本に引き揚げているともいう。
通化のマタ・ハリこと……佐々木邦子も日本に帰っているという。
野戦病院の院長柴田久軍医大尉……彼は通化を脱出したがその後各地を転々と流浪していたが、昭和二十一年九月に臨江で逮捕された。十月二十一日に事件首謀者として臨江の処刑場で銃殺されている。
赤十字病院に入院していた重症患者十五名と、病気で入院中の職員(大釜大吉、進藤寛、佐久間次郎、横島安雄、中島武、柴崎(元通信隊)、森下春寿、岩野勉、織田義数)の九名は中共軍に攻撃され逃げきれず院内で戦死(虐殺)した。職員の海老原定男と脇本道夫(元通信隊)は逮捕され監禁中虐殺された。
安東方面に脱出した高桑光雄も戦病死している。奉天方面に脱出した北吉男、三宅富士夫は生死不明である。
北鮮に脱出した保志名保男、宇佐見晶は日本に無事直行して帰った。北鮮で逮捕されシベリヤ還送され二年後日本に帰国した吉田、高田、内田、玉城、松尾、渡辺、西畑、小林、伊藤、岡野、寺田達がいる。
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11