ああ……悲劇の通化暴動事件!
六十九、さようなら通化よ
通化の日本人の上には、その後も様々な出来事が起きた。四月、長白山の雪解けの水が奔流となって渾江を流れるころ、結氷した河面へ投げ捨てられたまま、固く凍りついていた何百もの犠牲者の死体が、下流へ下流へと押し流されて行くのを、日本人達は見た。そのころ国府軍の第一回目の爆撃が通化を見舞った。五月、楊柳の繁みが堤防に房々と垂れ下がるころには、国共の衝突が通化のすぐ目の前の山野で展開されていた。
そして六月、白い柳絮がふわふわと街の空を流れていくころには、中共軍による強制労働が盛んになってきた。防空壕掘り、第一線陣地の構築作業が夜を日に継いで行われ始めたのである。
日本人技術者が強制参軍させられた、特に医療技術関係者に激しくかつ厳しかった。
赤十字病院の職員、〓島、平井、前原、紙田、池野、工藤、折付、大道、横田、横山、白石、清水(英一)、秋葉、篠原、佐藤武、近藤、海野、滝沢、宮原、白賀、高橋久、高木、土井、有延、紺田、土肥、岩井、多田、山本、鈴木、戌亥、新谷、児玉、大野、進藤隆、小倉、菅原、金谷、内藤、橋本達等は留用され参軍して、昭和二十八年から三十六年に引き揚げてくるまで中国解放のために懸命に働いた。
その功績は頗る顕著であった。特功、大功、中功、小功の功績で中共軍から表彰された者は数えきれない。
中には戦病死した〓島、大道、折付、高橋などのように生命を捧げた職員達もいる。
そのころ、日本人達は悲しい別れをしなければならなかった。同時に独身女子の強制徴用が行われ始めたのである。付き添い婦、洗濯婦、縫工婦として三百名の女性が徴用された。恋人がいる者もいた。親と別れて行く者もいた。泣きながら皆んなが彼女達を見送った。
そうして八月! 思い出の十五日! をまた迎えた。その日で終わったはずの戦争がまだ続いている。
そういうある日、中共軍によって日本人は通化劇場で「日本人大会!」を開くよう命ぜられた。
……。
「引き揚げ開始!」……。
命令が下ったのである。その日の喜びは何ものにも代え難いものがあった。
引き揚げ準備がその日から始まった。食糧十日分、現金一人満洲国幣で千円、衣類二組、寝具一枚を持つことが許された。
輸送指揮者が決まり、大隊編成が決められた!……。九月二日、新通化駅から第一大隊千二百名が第一陣になって出発した。それから八日までの七日間、十四列車が発って行った。
通化に残って中国人開業医のところで働いていた、石川県の出身の清水憲太郎職員は、故奥田院長の妻子を同行して引き揚げてきて、妻子を無事親元へ送り届けたのである。
……。
「さようなら、通化よ!」……。「ツアイチェン(再見)長白山!」日本人の頬は皆んな熱い涙に濡れていた。
非命に倒れていった者、生き抜いて今帰り行く者。遠ざかっていく街の屋根!……その上に冠さる長白の山々!……渾江の流れ!……。
悪夢のように流れていった歳月を思って、泣かない者は一人もいないのだった。
……。
「長白山!」……幾多の民族の興亡を秘めて深い眠りの中にある死の火山……。
その壮大な裾野は今赤い中国となり赤い朝鮮となった。そこでは、かつて激しい戦いが戦われていた。
その山野が平和な山、平和な野に帰ってくれることを、最も祈っていたのは、そこから帰っ来た通化の人々であったかもしれない!……
(未定稿)
[作成時期]
1989.04.11