【登録 2003/02/16】  


ああ……悲劇の通化暴動事件!

七十、後述


 私達「関東軍臨時第一野戦病院」の百二十五名と第一二五師団通信隊初年兵十名は通化市において、終戦後最後の関東軍司令部命令を受けて、重症将兵患者を収容してその治療に当たった。しかるにソ連軍より名称を「赤十字病院」と改称を命ぜられた。さらに中共軍に接収され「東北人民自衛軍第一病院」と改称される。
「通化事件」の翌日の昭和二十一年二月四日午前中に部隊長柴田久軍医大尉の任務終了、解散の命によって日本軍、関東軍軍人としての任務は解任されて終了した。
 百三十五名のうち戦死、銃殺死、戦病死、虐殺死、生死不明、帰国後の病死、音信不通など七十三名で、現在連絡可能な六十二名で、新京の「新」と通化の「通」をとって「新通会」を結成して現在に至っている。
 西暦一九八八年十一月九日(昭和六十三年十一月九日)に京都の明治維新のときに桂小五郎の愛人芸者の幾松(後の木戸参議の妻)の家跡、割烹旅館の「幾松」で「新通会」の総会を開催した。参加者は三十二名で互いに再会を喜び、積もる話に夜の更けるのも知らなかった。
 このとき、かつての戦友職員の伊藤源善君の持ってきた、『通化幾山河』のことが話題になったのである。戦友職員の宇佐見晶君の体験や調査資料も多く取り入れて書かれているが、我々の知っている「通化事件」とは事実に相当違いがあるという多数の意見が出された。これに実際に事件の渦中にいた者の体験談に、さらに疑問または意見を出し合って、またその後中共軍に留用されていてわかった真相を書き加えてみようということになった。

 未だ資料は完全に集められていないが、編集者の知っていた範囲内でとりあえず纏めてみた次第である。
 今後の多くの体験談、感想文を寄稿されんことを望みます。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita