【登録 2002/09/15】  
[ 散文 ]


〈Buried manuscript〉

待ち合せ

 待ち合せの時刻までには、まだ一時間ほどある。灰の浮かんだ水割りのグラスを燻っている髑髏を象った皿の上で逆さまにすると、忍び泣くような声を上げて煙が立ち昇った。
「一時間のうちに何軒、梯子できるか試してみる」
 俺は、二十年程前の映画のポスターを気障ったらしく重ね貼りした鉄のドアを押して、急階段を滑るように降りていく。背中に、「それで戻ってくるの、こないの」という粘着的な女の声がのっかる。
 夏の夜が涼しいわけもないが、屋根裏の汚い酒場で蛸のように蹲って自分の足を舐めているより、生温かな風を浴びたほうが健康的だ。
 ほろ酔い加減で足許が覚束ないとか、紅燈のざわめきが明方のように妖しく頼りなげだというわけでもないのに、俺は得体の知れないものに躓き、大きくよろけてしまった。
 あまりに軟らかで、醜怪な感触を靴を隔てて抱いたので、あわてて躍り上ってしまったのだ。見ると猫ほどもあるどぶ鼠がピンク色の腹をのけぞらせて潰れている。赤褐色の泥のようなものと一緒に片方の眼球が飛び出している。
「嫌なものを見たな。今晩、反吐を上げるかも知れない」
 俺は初めに後悔していた。だが、思いつきを投げ捨てる気も、さらさらなかった。待ち時間を堪えるなんて、人間業じゃない。
 とにかく知らない酒場に行こう、一言も喋らないで、一軒につき水割り三杯まで――俺はポンテ・ロッテを出るときに、そうルールを決めていた。
 いま、十一時、深夜の零時が約束の時間だ。

 俺はその界隈から十分程歩いた小さなバーの蝟集している一角に行くことにした。どういうわけか、この街でその辺りだけは足を踏み入れたことがない。国電の駅の正面から伸びる大通りと中くらいの細長い境内を持つ神社とに挟まれた一角は、都市計画によると間もなく存在しなくなる。いわば、もうじき亡霊のように音もなく街の隅々に逃散し、消え去るというわけだ。
 そういえば、入口の粗末な看板は大キャバレーチェーンの軽薄な厚化粧と同類のイルミネーションに取り換えられている。長くはないぜ、おばさん、そう呟いてみた。
 都電跡の石畳に、煤けた顔を垢だらけの手拭で頬かむりした若い男たちが数人蹲っ
ている。四合瓶を持っている若い男が、頻りに所々に雑草が伸びている花崗岩の切石に唾を吐いている。「笑うひまがないんだ、気がついたら白痴になってたんだよ」と東北訛の強い口調で囁いていた。俺は彼らの傍らに立ち止って喫いかけの烟草を踵で揉み消してから通り抜けた。「白痴になってたんだよ」といった男がちらりと見上げて、視線を再び伏せたのを目の端に留めていた。

(C) 紙田彰, Akira Kamita.

(未定稿)

[作成時期]  1975/99/99