太陽が毒をふり撒いていた。
海岸道路に沿って建てられていたレストランの二階からは、光の
小波が織りなす黄金の海がすべて
見霽すことができた。白木造りのこの長細い建物の窓は、床から天井まで、海の光を全面的に受け容れていた。
窓際の席につき、メニューを差し出すギャルソンの短く切り詰められた指先を見て、この男も汚濁にまみれたあの部分をその指で掻き回すのだろうかと妙に落ち着かぬ気持で考えていた。濃いコーヒーと紫色のソースの添えられた洋梨のムースを註文すると、海の輻輳する燦きの下に永遠に沈んでいるものという言葉が浮かんだ。
「あのヨットは飛魚ね」
二人連れの女客の、若いほうの女の声が窓ガラスを切り裂くような鋭さで伝わってきた。たしかに小さなヨットの帆が光の小波の蠢きにつれて見え隠れする。その姿が舞い上がるものの性質を抱えているような気がしないでもない。
晴れ渡った空は、その青い色彩の中に充満する陽光の発散する磁気のためか、あるいは水の中にひそむ光への
憧憬のせいか、躍動する黄金の色を帯びていた。
年上の女の方が若い女の白い指を両の手の平で押し包み、それから歯を立てるのが見えた。若い女は袖なしの白いワンピースから伸びている腕を折り、テーブルに肘をつき、いささかなげやりで不安定な姿勢のまま相手に指をあずけている。つまり、躯全体の重心がわずか数ミリ年上の女の方にずれているだけなのだが、その傾きが危うい淫らさを構成しているに違いなかった。
だが、官能というほど強い匂いは感じとれなかった。黄金色の光を吸い込んだ若い女の眸は、乾いた無感情とでもいうべき銀色の光沢を凍結させていた。
こちらからは年上の女の横顔と襟の広い派手なカッターシャツの背中しか見えないが、その肩が小刻みに揺れているような気がした。だが、二人とも視線は海上のハレーションに漂わせているだけのようであった。女の揃った歯が硬質の磁器の無機質性を思い起こさせた。
「夏に入る前が見事ですね。光が溢れていて、その輝きが強過ぎもせず、弱いというでもなく、長いこと眺めていても疲れることがないのです」
湯気の筋を揺らめかせたエスプレッソの入った白いカップを木目の浮きでたテーブルの上におきながら、中年のギャルソンが話しかけてきた。
「しかし、何というのですか、眠くなってしまうような、そう、麻薬に浸りきってしまうような、そんな気がする時があります」
「あなたはここに長くおられるのですか」
「ええ、生まれてこのかたというわけです」
このレストランの、この窓から見えるロケーションの中に、というような意味で訊いたのだが、彼はこの海岸地方と彼自身の結びつきを人生の問題として答えたようである。香り高いコーヒーの濃密な味が神経を鋭く刺激していた。小さなカップに幾分かの悲鳴をあげさせながら、まだ話し足りなそうな男から海の光へと視線を戻した。
だが、光は、ある種のうねりによって、脂ぎって、どろどろの救いのないような粘着性といったものに陥ってしまうような不安がないでもない。そして、そのとき、俺たちはこのコーヒーのような色の汚濁した血を吐くに違いないのだ。その証拠にこれがあるのだ。首からぶらさげたピルケースの中にしまわれたものを、明瞭に思い描いていた。
「心が溶けてしまうわ……」
女たちの方から、溜息を伴ったかすかな呟きが伝わってきた。どちらの女が発した言葉なのか、判然としたわけではなかったが、海を眺めていた年下の女の顔が一瞬の無表情といったものに囚われていた様子から、その言葉がこちらに背を向けた女のものであると思われた。
この場所に用のなくなった翌日、ホテルを出ると、まだ午前中だというのに、すでに膨らんだ太陽は海に繋がれた地方にじわじわと光芒をそそいでいた。
灰色のドライブウェイを横切って心なし湿気の感じられる浜辺に降りてみたが、砂の中に潜んでいるというよりは何ものかに唆されて滲み出てしまったというべき硝子質の粒子の一粒一粒が棘のように燦き、その燦きがあたり一面見渡す限りの砂浜に広がり、全体がわけも分からずぼんやりと熱を帯びているかのように苛立たしげな光の霧となって海岸を蔽っていた。
波打ち際に沿って延びる黒ずんだ長い砂の帯が、打ち寄せる波のさざめきに揺れる一枚の永遠の織物のようにその表情を変えていく。それは水平線が弓なりに視界の無限の可能性を抑圧していることと反対に、細部の無限の可能性をつねに崩し続け、そのくずおれたほつれから生じる何ものかの脱け殻が繊維となって織り出される布地なのだ。マテリアル。そして、白く光る厖大な部分との境界に取り残されている壊れた漂流物、貝殻、藻類。その布を断つものといえば、どこの岬にもよくあるけれど、海面と直角に切り落とされた剛直な岩肌を持つ巌の、見るからに窺い知れる鈍重さ。
向こうの方で、裸足を水に弄ばさせたままほとんど動こうともしない女は、昨日見かけた女だ。潮風に煽られて時々乱れる黒い髪を除けば、ショートパンツと体にぴったりくっついた紺色のTシャツだけの肉体は人形のものだ。蝋細工のなまめかしさというよりも、大理石のような無機質性。若い女の心は水に溶けてしまおうというのだろうか。まるで流木のように気の遠くなる時間をかけて、形を変え、少しずつ砂に埋もれていこうとしている足という錘と一緒に。
「ヨットですか」
風に声が閉ざされているのか、女の聴覚への意志が閉じこめられてしまったのか、近づいた女の肉体には気配というものが感じられなかった。
「蜃気楼が浮かび上がるらしいですな」
振り返った女の胸が
飛沫に濡れて、蕾の形まで露わになる。
「違うわ。あの人は行ってしまったわ」
岬の方に見えるヨットは女たちのものなのだろうか。女は、はっと気づくと、驚いたように目を瞠いて、どこかに宙吊りにでもなっていたはずの生気を蘇らせた。蠢く砂に埋もれた白い足首が現われたとき、筋を立てて反り返った細い足指が妙にエロティックだった。
「あなたは、誰?……」
どうして、あれを渡したのか、自分でもよく分からなかった。あの女に必要なのはもっと別のいかがわしさだったのかも知れない。外国の港町だとか、古い水辺の宮殿だとか、ミイラの顔をした隊商だとか、幽霊船、そんな話のあとにあれを渡したのだ。
私は知っているのだ。だが、私も、あの破滅していった女と同じように、この女の磁力に傾斜していたのかも知れない。けれども、この女は自ら発する磁力によって、自らもただその方向にのめってゆくのである。女は招き寄せられたものとして囚われるのである。そして、惹き寄せた側のものが崩れてゆくとき、再びまるで生きていないもののように、磁力の片側で、生きていることとは無関係に幻のように君臨するに違いない。傾けばこちらに惹き寄せられる。だが、若い女は見たとおりにいつまでたっても若いままだ。
私がそれを渡したからというだけではなく、女が壊れた人形を捨て去るように、何か大事なものから離れていくというのは確かなことなのだ。そして、女自身が壊れた人形になって海を漂い、波に洗われ、繊維をはだけていくのである。
誰のために用がなくなったというのか。海に閉じこめられる人形に会う前に、私の用はすんでいたのだ、もう一つの泥になった人形が土に還り始めたときに。
昨夜遅く訪れたこの地方独特の眠りを破る激しい雷雨がもたらした一瞬の覚醒。暗闇のなかに差しだされた鏡さながら、肉に沁みとおる稲光。私は首からぶら下げたものの蓋を開けたのである。
土に呑み込まれるものと、海に還るもの。どちらが原始であるのだろうか。どちらが無表情であるのだろうか。
私がいつものように新たな列車に乗り込んでから思い浮かべたのは、夕陽に染められた海のハレーションの向こうに流されていく、剥き出しにされた白くか細い枝のような人間の原型が、
飛沫を浴びて金色に光り、羽をもたげて幾度となくジャンプするさまであった。
(C) 紙田彰, Akira Kamita.