思考と意識
意識は身体に帰属している。身体は機構であると考えると、身体は肉体と意識というそれぞれのノードをもち、肉体と意識は身体の機能として帰属させられているとみることができる。
だが、思考は意識と関連してはいるが、その生成物としてみることで、意識あるいは身体から切り離すことはできないだろうか。
医学あるいは脳科学によって示されるところをみると、、身体の機能はいっそうロボット化し(代替可能)、さらには脳における生物的化学反応あるいは機能さえも肉体(生物-生命活動)と切り離され、ついには意識活動がロボット化された身体によって実現され、肉体のない意識が存在するという可能性がある。
このことは、意識が生物-生命活動に絶対的に依存しているのではなく、(生物-生命活動から切り離された)機構としての身体に依存していることを示している(それゆえ、意識が身体とは独立した存在だとするのは、結局、身体機構のない状態の意識を持ち出すことになり、心、精神、霊などから神秘主義的あるいは宗教的世界観にゆきつき、それは絶対的な外部客観を措定せざるをえない無限論の矛盾をもたらすため、実在論が適用できないことから、ここでは除外する)。
意識は肉体であろうが、ロボットであろうが、その機能が帰属する機構がなければ存在できない。
だが、たしかにその生成物である思考自体は、意識と運命を共にするのだろうか。思考は身体とも意識とも分離された独自の存在と考えることはできないのだろうか。
意識は身体を離れては存在できない。
思考は意識を離れて存在できる。だが、そのためには、思考は物質でなければならない。
身体とは身体レベルであって、包含-被包含の連鎖構造であるから、食物連鎖と同様の抑圧と自由の構造(システム)に収斂される。それゆえ、意識もそのような上位レベルに支配されている。
思考はそれぞれの結果なので、つねに独自の存在として、宇宙と等しい規模をもつかたまりとして考えられないか。そのためには、思考は物質としてのエネルギーを持たねばならない。
137億年前のビッグバンのことを考えることができるのだから。
137億光年の宇宙の果てのことを考えることができるのだから。
思考は、宇宙で最高速の光と同じか、それを凌駕して光のゆきつく先のことをも考えることができるのだから。
(未定稿)
[作成時期]
2007.02.18