【登録 2007/05/02】  
紙田彰[ 断片 ]


Super-string Theoryシリーズについて
宇宙をイメージするのではなく、宇宙論という思考から触発されたイメージを展開する。


 わたしには、生きている間に次の問題をなんとか知ることはできないかという根強い思いがある。
 それは、人間とは何か、存在とは何か、宇宙はどうなっているのか、という三つのことである。
 そして、これらのことを主要なテーマにしてこのシリーズが生まれた。

1) 「人間とは何か」という問題
 人間存在においても包含−被包含、つまり詳細化される部分構造の重なりが複層的な入れ子となっている。
 その詳細化された部分は、単に全体の一部ではなく、独自性を持っている。
 そのような詳細化された部分が発する叫びの集合によって、人間は人間を人間たらしめているに違いないのだ。
 このように考えると、おのずから存在の基点という問題に向かわざるをえない。
 この基点、モナドの底から累積している叫びこそ、解放衝動と名づけうべきものである。
 この解放衝動は、あらゆる全体化に抗い、それぞれの存在の自由を求めている。細胞も、血や肉も、手や足、内臓、神経、脳みそから髪の毛一本さえも、それぞれの意志において。
 このような問題を原初的なテーマに据える場合、それは必然的にマチエールの造形と関連していく。キャンバスにおける肉体的行為とその体験として――。
 肉体の深奥から立ち上がってくる衝動が、ニードルやナイフやサンドペーパーを選択するのであり、モナドの戦慄が画面の多層化を要求するのであり、マチエールの実在感がそれぞれの存在の証となるのである。

2) 「存在とはどういうことか」という問題
 構造としての肉体の詳細化は、その究極において量子論へ到達する。なぜなら、量子論は物質の極小を扱う学問であり、物質の存在について考えること抜きには人間についての探求は不可能だからである。
 量子論は量子の重なりと不確定性原理を軸にした理論であるが、マクロでは一つの見え方しかしない物質が、ミクロにおいては確率論的にしか見えない(存在しない)というものである。
 マクロとかミクロということさえ、見る側のポジションによって定義されるスケールやサイズなどの相対的なものであるので、人間存在はマクロであるとして済ますこともできない。あらゆる存在はミクロの物質による構造体であるからだ。
 こうした極小の問題は、さまざまの思考イメージを惹起し、抽象的な表現ばかりではなく、実在としての思考を生み出す原因となるに違いない。

3) 「宇宙はどうなっているのか」という問題
 量子論と重力論(相対性理論)は量子重力論という学問によって、宇宙という極大の物質を宇宙の原初、つまり極小のビッグバンを扱うことで統合しようとしている。
 その最新の理論である「超ひも理論」によると、物質は極小のひもエネルギーの振動で作られており、このひもはさらに物質の中に多次元を閉じ込めているともされる。
 極大の宇宙がそもそも極小のビッグバンから始まっており、サイズやスケールの問題が相対的だとすると、いまだ宇宙は極小のビッグバンの渦中にあるとも考えられる。
 つまり、宇宙がビッグバンという物質の内部にあるとすると、宇宙もまた極大のひもエネルギーに巻きつかれているという逆数の相関があるのかもしれない。
 2次元で多次元を表現するのは絵画の不可能性といえるのだろうが、このシリーズでは思考イメージの可能性によって平面を造形し、構成しようとしている。

(未定稿)

[作成時期]  2007.05.01

(C) Akira Kamita