(絵筆が)
――2003.9 二度目の個展前後
絵筆が進まなくなったとき、思考を宇宙の方に向けるか、人体のイメージを深めていく。
宇宙のそれは抽象論理ではなく、造形的、幾何学的純粋がわかりやすいかもしれない。
人体については、性的な官能と内臓のグロテスク、微小世界の宇宙的対応がある。
独自の造形は類を見ないものであるべきだ。
不同一というだけで充分に意義がある。
そうなると、現実とを繋ぐ形態は単に文脈でしかない。つまり、造語の物質性がすぐれれば、文脈なしでも全体性をもつということだ。
文脈はときにラインの連続性、関連性ということになる。ある種の誘導、解説、弁明でもある。
これは、見る側を想定しいてるものに他ならない。
自己解決が弱いときに、出現せざるをえないのか。
だが、思考を誘うものであるとするなら、そのような連関性は不要だということはできない、という矛盾もある。自己と造形物との対話ということかもしれない。
その対話の痕跡はまた見る側の参入の糸口にもなるだろう。
作家からのお願いと称して「興味を惹かれた作品があれば、画鋲でマークを」と貼り紙した件について
見る者の参加を促す。
画鋲を刺す行為で、見るものが何を注目するのか、何に関心があるのかを自ずから判らしめる効果。
自ら扉を開く行為を、コラボレーションに言寄せて誘き出している。
どれに関心があるのか、という選択を迫るのではなく、何に関心があるのかを思考するという自己行為を迫っている。
だから、具体的に作品は選ばれなくてもいい。
与件は、実は解がその中にあるわけではない。解は開かれた糸口のさらに向うにある。
作品が選ばれているわけではない。
見るものの思考が切り取られ、それ自体を自ら選んでいるのだ。
(未定稿)
[作成時期]
2003.09.23