【登録 2004/02/18】  
紙田彰[ 断片 ]


(自由とは何かの考察)

 私は私に属しているものを知ることはできない。また、私が属しているとされるものが私を知ることはできない。さらに、私が私を属しているとするものを推測することができるが、本当は知ることはできない。
 私がこれらを知ることができるとすれば、それはファシズムということであり、私自身の自由からも、あらゆる存在の自由という問題からも遠く隔てられてしまうということである。
   「自由とは何か」冒頭のための草稿

存在とはノードである。
また、自由である存在とは、属するものを支配することはなく、属することを拒否することであり、つまるところ、すべてを認めながら、すべてを否定するということであり、存在そのものが自由な存在であるという絶体存在をを直観することである。

なぜ、属するものを知ることができないかというと、属するものの表面というものの認知は、属するものの構造の連鎖を閉ざして私に開示するからであり、私は私の肉体と意識、精神につながる機能の表層を属するものから得ているに過ぎないからである。
属するものの表層の機能とは、属するものの側からは私が属するものに認知されている私の表層(下部から見た裏内部の)を機能として、つまり属するものの側の構造を結果させる機能として、それを得ているのである。
この構造は、私を属するものの場合にもあてはまる。
そして、構造の上位と下位の関係は本来的なヒエラルヒーをもつものではなく、認知あるいは推察する側の構造から主体的に取り決められる。また、そのベクトルも同じように主体のあり方で取り決められる。
つまり、hybridな構造、方向と拡がり、多軸の階層が交錯しているわけである。

(未定稿)

[作成時期]  2004.01.18

(C) Akira Kamita