存在の単位
体の中にあるあらゆる単位、それらが自己を持つ。
自己を持つということは、自己と自己以外のものを分かつということであるから、その自己以外のものは自己に対して、アプリオリに一存在である。これはまた、自己と自己以外という全体においても同じことで、概念的には全存在という包含を意味する一存在ということになる。これらの関係は、包含と非包含で構成される構造となっている。
つまり自己は自己以外のものとは、包含される場合と、包含されていないように見えて本質的・実質的には包含されているという場合を、自己の規定として持つのである。
包含という概念は制約概念であるから、当然、反-包含、非-包含、超-包含という自己の論理的可能性を持つ。
そして、自己とは内-自己という構造も想定され、超-ミクロ的な包含関係も自己の規定のうちにすでに用意されている。
ここで、包含関係は、単位が細分化可能であるかぎり、無限の包含構造を想定でき、かつ分割不能な単位が概念規定上ありえても、その証明は不可能であるという論理も誤っていないわけであるから、分割不能な「原」単位はありえない。
つまり、オリジンという概念はありえないのである。
存在―無―有という論理はありえても、その基本単位を「原」単位として想定することは無意味なのかもしれない。
そうすると、ここで現れてくるのは循環論である。ミクロとマクロの宇宙論はこうした循環論的把握を否定することはできない。
ただし、一定の範囲をもつ循環論ではなく、無限の方向性をもつ循環、つまりアナロジー的な、スパイラルな、動的ねじれをイメージするほうがわかりやすいかもしれない。
渦なり螺旋を巻いて、存在はミクロとマクロに突き進んでいる。
2005年6月「第8回個展」会期中の断片
(未定稿)
[作成時期]
2005.06.21