(作品に取り囲まれるということが)
作品に取り囲まれるということが何をその時間に与えうるのか。
その作品はたしかに自らの生み出したものなのであるが、すでに私の手の届くところには存在していない。それはただ悲しみのうちに充満している過去の音楽というようなものでもなく、知られざる未来の破滅(おお激烈な破滅よ!)ということでもない。ただ瞬間が永遠であるように、永遠が偶然の一瞬であるような、我を失わせしめるごとくの原初の存在。
だが、それは私をそこに誘き入れようとしているのか、それとも私を遠ざけようとしているのか、あるいはそれと私の間隙には遮断された透明な皮膜が漂っているとでもいうのか。私はただ漂っている。意識ばかりではなく肉体そのものがたしかに漂っているのを感じている。
体が、からりと変換するような、そのような極限性を目のあたりにしているのかもしれない。けれども、その視線は誰のものなのだろう。私はすでにそのような目から失われているのだから、その眼は変換という状況そのものなのではないか。変わりつつあることが変わること自体を知っている――。
私は作品にそのような意味あいで、仕上がりのサインを入れなければならない。
第12回個展で
(未定稿)
[作成時期]
2006.04.25