【登録 2011/12/19】  
紙田彰[ 散文 ]


〈自由とは何か〉
自由とは何か[019]

19

(dance obscura)
 私たちは「肉の広場」ともいえるdance obscuraに集まっていた。私たちはそれぞれ。それぞれの部位であり、細胞、意識。独立したそれぞれ。孤立したそれぞれ。

 最初、私たちは続々と蟻の巣のような地下の館に入り込んでいった。そこは、細胞や組織が多重化されて区切られているキューブの集合体。床と廊下にはびっしりと深紅のカーペットが敷き詰められている。赤い迷路。部屋には壁はなくドアだけで、ランプブラックの黒い柱がしっかりとした枠組みを作り、深紅の扉が襖のように開け閉てされている。そのような室内で、少し青みがかった照明が赤いカーペットを高貴な色彩に染め上げている。それらの部屋をつないで、暗紅色の血液の川が廊下を流れている。紅の館はいっそう深く染められて、炎のように燃え上がる。

 アンダーグラウンド。暗い地下の街。蟻の巣のような館が蝟集しているその中心にあるdance obscuraではダーク・ダンスが始まっていた。私たちの集まりの目的は、このダーク・ダンスを見ることである。

 周囲の館からはゆらゆらと燃える炎が陰影のある赤い光を漂わせていた。その中をまばゆい、細い糸のようなスポットライトが熱気の罩もる空気の襞を射通し、ステージの一点を鮮やかに照らした。バロック風の、繊細な、小刻みに畳みかけるような旋律が静かに流れている。今度は、舞台の下方のフットライトが徐々に光度を増していく。それから、褐色のセロファンが貼りつけてあるのだろうか、ライトの色が切り替わり、退嬰的な淡い光の束が幾度となく舞台を舐め廻す。

 初めのうち、数人の少女たちが裸で現れ、手をつないで、輪を作って踊る。風のように軽やかな若い体、つやつやと靡く長い髪。アンリ・マティスの描く「ダンス」が明るい光の中に現れる。彼女たちは楽しげに踊っている、踊らされている。しかし、それは画家のなせる業ではない。ぐるぐる回り、だんだん早く回り、まるで溶け合ってこちらの視線がバターのように絡まっていく。踊りの輪がいつまでも続く。踊っている、踊らされている、いったい何に?

 気の遠くなるような幻惑の装置の中で、ひとりの舞姫の体が流れていた。流れているとしかいいようのない微細な曲線を歩いているのだ。エキセントリックな弦楽器の病的な喘ぎが聞こえ始めると、踊り手は片足の爪先の一点に体重を注ぎ、小刻みにふるえだした。獰猛な嵐に逆らって、蒼穹たかぞら を翔け抜けるような肉の振動。緋色の、縫目のない薄いシルクの衣裳のふるえが、なによりもその筋肉の闘いを伝えている。
 ダンサーの体が栗鼠のように小さくなっていった。どこまで縮んでいくのだろうか。ついに舞台の上の一点の赤い滴となって、そして……。そして次の瞬間、白い貌だけがきわだって印象的に、深い苦悩の皺を泛べて巨大化した。舞踏手の痩せた白い貌につややかな凝脂が漲っている。

 私たちは考える。あらゆるものがただ一点に重なっている。空間も時間も、さらにはすべての次元も、あるかないかを問わずに、ただ一点に重なっている。宇宙は膨張しているのではなく、内部に向けて、それ自体の分離を繰り返し、重ね合っているにすぎないのではないか。

 沁み入るような音楽が、そのとき破綻をきたした。女性の体を包んでいた真紅のドレスが勢いよく四方に拡がり、炎のように燃え上がった。静止していたかに見えた体が独楽のように、三角形に広げられた赤い布の下端を支点にしてくるくる廻転を始めたのである。凄じい速度で打楽器が叩かれた。聴覚に対する殴打。女体は宙に躍った。四肢をいっぱいに広げる。白い肌が眼を射る。宙にありながら激しくターンした。
 女の、眉のない、異様にのっぺりとした表情の中に、舞台の、ショーの、すべてが吸い取られ、強烈なライトの洪水の中で、布を介して透き通る白い体が、みるみる光沢を生じていくのだった。

 関節と関節がどのような方法で折り畳まれるのか。まるで骨という骨が関節という接点に吸い込まれていくように見えた。人間は脆いもの、魂も脆いが肉体はもっと脆い、その脆さがあの見事なターンを可能にしたのだろうか。ひとときも目を離せなかったのだ、あそこではすべてが一致していたのだから。どんな細部も看過すことはできない。精神と肉体が、思想と技術とが同じ高みにあったのである。
 それはまさしく、ただ一瞬の跳躍――。

 ――意味と価値があるかどうかはわからないが、生きるべし、死ぬるべしという意志にはたしかな理由がある。それは、侵されざる自らの意志が、ただここに存在するから。
「眼を閉じると世界が閉じる」「そうだ。宇宙も閉じるかもしれない」
 すべてを負っているもの、すべてを蔽っているものの織物のごとく。ありうべきもの、あらざるものの極小の断片のことごとくのために――。

全面加筆訂正(2011.12.23)


[作成時期]  2011/12/23

(C) Akira Kamita