旧作:197404: 魔の満月 第一部(習作)

彼そのものの取違い ひとつに夜の太陽が山脈の翳に貼りつく ひとつに微かな断末魔が聞き取れる 彼そのものの取違いとは音に関する種々の困惑を云い 体躯を包む巨大な鼓膜とその組織に関する 無謀で最大の 拘束の事実についてのある考えのことである――まず侵蝕される事態が 彼の茫洋とする魂を慰撫する その頃 至るところで彼の愛人(両性具有の生物)が奔放に春を重ねている 白い一軒家でのある出来事はその愛人を激変させるに十分である 庭先で腹を膨らました牝犬が陰部を花弁の様に剥き出しにして苦しんでいる いきなり 何者かによって後足を掴まれ引き裂かれる 肝臓 肺 それから心臓がぴくぴく転がる 腸が転がりそれと一緒に管に絡まれた小さな犬の形をした塊が弱々しく呻いている ぐしゃりと踏み潰されると その愛人の部屋にも酸性の臭気が届く その愛人は下腹部をよじる 白い壁は飛沫を浴びくねくねと蠕動する 何者かがドアを乱暴に開けてその愛人に覆いかぷさる 春が幾度も重ねられる 何者かとはその愛人が産み出した笛である 笛はメスの如くその愛人を切り刻む 水平に刃をあて皮膚を薄く剥いでは 次々に窓硝子に貼りつけ 垂直に刃を突き立て肉片をほじり出しそれを吸い込んでは幾つかの穴から吐き飛ばす すると 赤味を失ったそれがすっかり乾燥しながら天井裏でばたばた騒いでいる 陰毛や頭髪が散乱する床の上に無造作に内臓が並べられる 肉市場の中で 笛がもの悲しい春の曲を奏で始めると その母親は一緒になって歌い出す 窓硝子をびっしり埋める皮膚も青くなって はたはたリズムを打つ 天井裏ではかたかた踊り出す肉片が自分に自重するよう命じていて 足の踏み場もない程にのたうち回っている毛と内臓とその他の群は次弟にゆったりとした呼吸をする 母親と息子は己れのそれぞれの立場を解し 独特の寂しい旋律を恐怖の旋律に変えようとする 音は無理な上昇を強いられて ぱしゃんと弾ける 続々と弾けるうちに正常な音は死んでゆく リズムでさえこの世にあるものは死んでゆく 母親と息子は己れのそれぞれの立場を解し 独特の寂しい旋律を恐怖の旋律に変えようとする 音は無理な上昇を強いられて ぱしゃんと弾ける 続々と弾けるうちに正常な音は死んでゆく リズムでさえこの世にあるものは死んでゆく さて 解し得たのは何であろうか ここまで思い及んだ時寝台ががたんと倒れ その拍子に笛が折れてしまう さめざめと泣くその愛人も 一昼夜を過ぎると早速部屋を整理し始める だが 知らぬ事とするにはその旋律の及ぶ範囲が広過ぎる 彼ほその音の異常な成り行きにすっかり混乱を強いられ そのため一切の音の世界から身を引かざるを得ない 銅鑼が激しく叩かれその音は彼の足場を顫わせる 緩やかに波打ち空を支える枠組が歪み出す 歪み出すとそれに伴い星の輝きが異様に増していく それと同時に ダアーンと銃声がして 次々にダーンダアーンと銃声があがる 彼はその方向を見出す そこは薄暗い廃墟であったが そこから流れる放物状の軌跡は その愛人に与えた護身用の短銃のものである 散弾の様に破裂して飛ぷそれはあの笛のものである 彼は報復の意志を持ち始める そいつ(彼の愛しき両性具有者)が先手を打った事は許し難いものだから 彼は報復の意志を持ち始める 彼は夜の貌をする すると空は次第に己れの生体解剖に耽溺し 暗い血液で深夜の表情を整えていく 魔のものが飛び交う 魔のものとは母親と息子の恐怖の戦慄である 見渡せるものは楕円形の地平線であり そいつの分身の奇異な姿が出没する まず下卑た眼を半ば開けて反り返った鋭い顎が彼を八方から塞ぎ込める 彼の手足は胴体から何本も離されて ひときわ澄んだ声が断続的に洩れる 髪の毛が抜け落ちて 蛇の様に咽喉元を締めつける 彼は報復の機会を待つ 彼は報復の機会を待つ そいつの素晴しい作戦は 北極星の様に燦然とする彼の歯のあたりにドリルを突き立てる それから連続的にありとある汚物を詰め込み 彼相応に飾りたてる 彼は思考を途絶えさせながら報復の機会を窺う そいつは道端で拾った安物の笛に息を吹き込んで魔笛に変じることによって彼を拘束しようとしている 明け方 街に人気の失せた頃 薄明の路地にそいつの分身が舞い降りてきて密議をしようという時に手にした安物の笛 酔っ払いがどこかからくすねてきた音程も定まらぬ笛 だが処女の固さ持つその笛は 胎児の様に悪魔の夢に浸っている その頃 彼は愛人への執着を振り切ろうとしていて 世界を悪意で充たそうと 計っていた矢先である