[資料] 天安門事件: 内側から見た恐怖政治[01] (佐丸寛人)

 二、怒れる人民たち(「6月4日事件」直後)
「6月4日事件」に関する第一報は、4日昼、同じ宿舎内に住むアメリカ人のC氏から聞いた。彼はVOAで聞いたとして、昨晩天安門で軍隊がたくさんの人々を撃ち殺したそうだと私に伝えた。確かにVOAの情報量は豊富で、報道速度も速い。しかし、大げさな話や嘘も結構混ざっているので、この時もせいぜいデモ隊と軍隊との衝突を「虐殺」と称しただけだと思った。それ故、彼の話に対しても、「まさかそんなことはないでしょう」 と一笑に付した。
 午後、町に出た。バス停でいくら待ってもバスが来ない。そのうち、知り合いの一人が自転車で通りかかり、私に声をかけた。
「佐丸さん、バスは来ないよ。ストだ」
 大学生たちは5月4日(五四運動70周年記念日)前後からずっと授業に出ていなかったが、運転手のストはこれが最初である。
 仕方がないので歩き始めた。暫くすると、私の知っている学生とすれ違ったので、北京の情勢について聞いてみた。
「アメリカのC氏から、天安門で虐殺があったと聞いたが、本当か」「本当です」「どうしてわかる」「我々地方の学生と北京の学生とは電話でつながっているんですよ。北京で何か起こるとすぐ電話が来る。だから、北京の情況は逐一把握できるんです」
 その日、私は友人に自転車を貸していて、またバスもないので、買い物を済ますと宿舎に帰って、7時のニュースを待つことにした。
 ニュースは最初に「反革命暴乱平定」という見出しを出し、そのまま固定した。映像はおろか他の文字も一切ない。その状態で20分ぐらい続いただろうか、アナウンサーが「反革命」の「暴徒たち」が[悪事の限りを尽くし」、これを戒厳部隊が「勇猛果敢に」平定し「首都の人民を守った」というような文章を読みあげた。それが終わってやっとアナウンサーの映像が現れた時、女性アナが目を赤く泣きはらしていたので、私も虐殺を確信するに至った。

天安門事件翌日 - ガードレールを曲げて軍隊へのバリケードとしているのか(1989.6.5, 撮影: 佐丸寛人)

天安門事件翌日 – ガードレールを曲げて軍隊へのバリケードとしているのか(1989.6.5, 撮影: 佐丸寛人)


 翌5日、自転車にまたがって町に出た。
 運転手ストでバスは一台も走っていないが、そればかりでなくバスをわざと道路の真ん中に横向きに放置し、車止めにしてある。そしてバスの脇腹には張り紙がたくさん貼ってあって、「中国最大の暴徒は李鵬だ」などと書いてある。他にも、ガードレールを置き換えたり、ねじ曲げたり、横倒しにしたり、或は埋める予定の土管をわざわざ道路の中央に横向きに置いたりして、車止めにすると同時に抗議の意を表していた。自動車は一台も走っていない。