未刊行詩集『空中の書』25: 誘惑

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地図にない場所というのは、区劃整理上のミスティフィケイションとか住居表示変更の際のケイオスなどといったものではない。また所蔵の地図が不備だというわけでもない。もちろん実在する場所が明記されていないというのは地図としての最大の欠陥だが、それはこの地図に限ったことではない。というより、完全無欠を標榜するなら、そのような地図は世界中のどこを捜してみてもあるはずがないのだ。だが、地図が実在している土地を明示することを放棄しているとき、それは地図を空想した贋物でしかない。現にこれから行こうとしている場所は、誰もが知っている場所なのに、いかに精密で権威のある地図にも載っていないのだ。

一般に女性、というよりも少女たちは暦に関して独特の畏敬の念を持っている。それも初心な少女ほど暦の下で困惑する。それから幾年か経た後には、多情な女ほど暦と親しくなる。だが、自らの失策で痛い目にあいはじめると暦を憎むようになる。バーのマダム連が客とのデートの刻限に遅れるというのは、そのような憎しみの現われなのかも知れない。もっとも、女は自らの失敗を棚に上げて強くなってゆく。

疾りつづけると街燈がますます揺れはじめた。その街燈に貼ってある緑色の住居表示標を調べるだけで時が奪われる。息切れ、眩暈。だが、それよりも、闇の中を電信柱相手にうろついていることに、ある不審と不気味さを感じていた。騙されているのではないかという、品性の下劣さを窺わしめるような言葉もつい出てしまう。けれども、あの電話の声――そのときにはもう魂の誘惑となづけていた――を想い返すと、そのような想いがいかにもみすぼらしく思え、改めて胸を張り、ついでにネクタイを糺してみるのだった。
指定の場所に到着したのは約束の刻限を大幅に超過してからである。実は我慢できずにタクシーを拾ったのだが……。
その住所をいうと運転手は、それじゃああの辺ですな、といったきり一言も口を利かずに走りつづけた。ルームミラーを介してその男の顔を見ようとしたが、驚いたことに、そこに映っているのは深い闇と後ろに走り過ぎる街の燈ばかりであった。車は迷路のような露地を何遍も曲ったあげく、面倒臭そうにタイヤの音を軋ませて停った。
この辺ですよきっと、と運転手は語尾を濁してこちらを振り返った。そのとき帽子の下に見えたものは、それをいうのが憚られるような類のものであった。さりとて猥褻でもなんでもありはしない、ただそんなことをいいだす者の精神状態が疑われる性質のものにすぎない。世の中に魑魅魍魎の類など数限りないし、それほど気にかからなかったのだが、一瞬怯む隙を衝いて、車はバックし、料金も取らずに走り去ってしまったのである。
だが、この袋小路がその場所であるのに間違いはなかった。なぜなら、電燈の壊れたこの電信柱にはあの緑色のプレートがついていないからだ。