魔の満月 ii – 1(世界創造説コズモガニーの窈窕な……)

寒さなど微塵も感じていない
あの生体実験によって与えられた新生の肌サドラの聖なる力が雪原の底冷えを遮断している
貧寒とした古代樹木の裸木が鬱蒼と生い茂るさまを左に俯瞰し右側の峡谷を覗くと 丸々と肥え太った灰色の小動物が所狭しと駈け廻っている
二つの川の合流している谷底がエルドレの直下に見える
そこには北壁に向って人口の水路のように青い水が湛えられ 対岸に抉られている小さな嵌谷から金色のきらきら耀く光が水路に射し込み さざなみがその波長に応じて小刻みに燦いている
そこはコーキュートスやレーテーの河のように忘却と嘆きの岸辺なのか
また老衰寸前の国家間における紛争の膠着状態が生んだ運命の糸口に至る汀なのか
エルドレは此岸に霞のように朧気で脆い小舟が繋がれているのを見る
疾風が疾る
剽忽にして冷気が背筋を噛む
木立を根こそぎ揺るがす烈風
エルドレは切り岸を降りようと決める
青銅の衛士から奪った剣 あの幾多の幻を血に染めた短剣を取り出し 胸や太股の表皮を薄く剥ぎ それで長い紐を作る
サドラは強靱なコスティに変貌する
槓杆こうかんに鷲の姿が彫られ大粒の真珠が象嵌された短剣を 風化層の固い岩に渾身の力を罩めて突き刺す
紐を柄にしっかり結えつけると 確かな足場を定めながら徐々に岩棚へと降りる
そこから水路に向って突き出たひさしにさらに紐を巻きつけ小崖の底に辿り着く
きりたつ断崖の険しい岩肌にへばりつき崖下に達するのにどれほどの擦傷を要したろう
血はつきものだ
流せるだけ流した方が得策である
情を知らぬ渡し守のカローンならば百年の流血も渡し賃にはならぬというに相違ない
エルドレは自ら剥奪した肌が瞬間の微熱のうちに再生しているのを知る
海藻を甲羅に植えた磯屑蟹が驚いて転石の下から這い出し緑色の足を忙しく動かす
潮溜りに棲息するガンカゼや刺胞に猛毒を匿すイラモに用心しながら波食溝や溶食穴を跨ぎ越える
オオアカフジツボがまだ濡れている波食棚の一帯をリトマス紙のように赤変させる