智恵子との出逢い
6 (恋の行方)
1948年の3月は大変忙しかった。連日の手術、担当重症病室のクランケの増員、外来患者の増加、竹内内科軍医の急性肝炎で倒れる、などで不眠不休の日が続いた。
流行性感冒が多発した。私も罹患したが休んではおれぬ。解熱剤を内服、注射して39度を越える高熱に堪えて仕事をした。若さに任せての無理が勝って、どうにか流感は治った。
4月に入って間もなく、竹内軍医が治癒した。その頃から全身倦怠、立ち眩み、目が回る、極度な食思不振に黄疸が出てきた。急性肝炎である。病室は満床なので自室を病室にした。看護は交替に護士達が来てくれた。50%のグルコース50cc1日2回の注射、内服薬は熊の胆嚢の粉末、特別食は粥に豚の肝臓料理が1日2回食である。
豆腐が、それも冷や奴が食べたくなって、院長が見舞いに来たとき話したら、その後1日3回冷や奴豆腐1回2丁が付いて出た。10日間続いた。さすがに飽きてきたので、看護にきていた護士にその気持ちを洩らした。
さあ一大事が始まった。これまで見舞いには空手か、せいぜい折鶴などの紙細工ぐらいしか持って来なかった日本人女性護士、看護員達や朽木、竹内、王軍医達の夫人、田中レントゲン技師の内妻・谷本さんまでが、「この煮物を」「酢の物は」「漬物はどうですか」と持って来る。食卓の上は毎回おかずの展示会みたいな様相を呈した。
なかでも牛尾護士長、大野、河野、野波、家村、能代護士、谷本夫人、竹内夫人などが先を争って持ってきてくれ、長話をしていくのだ。
大迫智恵子は注射に来る以外は来れない。牛尾、大野、河野は頻繁に来て何かと世話を焼きたがる。高田軍医は、
「俺の居場所まで占領される。後でゆっくり食べるから、ご馳走は残して置いてくれよ」
と言いながら、座を外し食堂に行き読書をしていた毎日であった。
だが大迫智恵子が注射を打ち終わった後、身を震わせて泣き崩れた。そして、「私は何も作れなくて、みんなのように先生の所に持って来れない」と言いながら、だんだん激しく泣きじゃくる。
私は、「気にするなよ。君は注射に来てくれるだけでいいんだよ」と、その時初めて彼女の肩を抱き締めた。彼女はそれで満足して、涙を拭いて帰っていった。純情なんだなと感じ、いとおしい気持ちになっていた。
初めて大迫智恵子の手を、「僕も君を好きだよ」と言って、固く握ったのは5月の夜であった。
その時はシトシトと春雨が降っていた。元日本軍隊兵営の衛門跡のところであった。その日急な命令で、彼女が吉林市衛生部に転勤をさせられることになって、別離の一時であった。両手をしっかりと握り締めた。痛くなるまで強く、長く、いつまでも離したくなかった。
2人は人通りでなかったなら、病院の窓の灯火がなかったら、必ずキッスか、いやそれ以上の関係に結ばれたかも知れない。だが、残念だったが、それはなかった。
彼女は3日後、帰って来た。今度は院部・甘院長付きの護士として配属が決まった。理由は甘院長夫人の嫉妬、焼き餅のためであった。李震夫人が知らない時に、甘院長が賀医務科長の診察を受け、その指示によって注射の上手な大迫智恵子が呼ばれた。そのことを誤解した。
彼女、大迫智恵子は李震夫人の誤解が解け、賀医務科長が、「紙田軍医との関係を知っている。私が悪いようにしない」と言っての院部勤務だった。
賀医務科長は毎日私のところに必ず来る。その時彼女は随行して来る。2ヶ月後、李震夫人が第一所の所長として戻って来た時、大迫智恵子も帰って来た。とんだ女の嫉妬からの誤解で生まれた、私達の別離の一幕――。
(未定稿)
[作成時期]
1988.10