(紙田家について)
1 (出口家)
私のことを語るには、まず家系から述べねばならない。
祖母・安女は明治元年、加賀藩士・出口安兵衛の次女に生まれた。
安女の父・出口安兵衛は加賀前田藩の徒士頭、800石の武士で、学問に深い造詣があり、当時の尊皇派であった。
武芸は椎名小天狗を流祖とする鞍馬八流の免許皆伝の達人で、文武両道の武士として誉れ高かった。また、明治維新の戊申の役には会津征討に参加して立派な手柄を立てている。
維新後、武士を捨てて米穀商となったが、自分の屋敷内に鞍馬八流の剣術道場を開き、若い子弟を育成していた。
また島田一郎と剣と学問の友人であった。島田は金沢の警察署長をしていた当時、よく訪れて来て、幼かった祖母・安を抱き可愛がってくれた。(島田一郎は西郷信奉者で、後に内務卿・大久保利通を暗殺した人物)
出口安兵衛の武勇伝の中に――。
明治の初期に、商用で金石に行き、商談がまとまり酒宴となり、帰りは深夜になった。武芸に優れ剛胆な安兵衛は、謡などを口ずさみながら、昼なお暗い松並木の往還の道を歩いて、我が家路に向かっていた。その当時は禄を離れ、金を使い果たした旧武士の、貧困ゆえの斬り取り強盗が横行していた。
前方に人の動きと殺気を感じた安兵衛は、武器を持たないため、素早く足許の石を拾い、懐から出した手拭いで包み、また懐に隠し持った。そして、素知らぬ態度で謡を口ずさみ歩いて行ったのだった。
脇からキラリと光った刀が斬り掛かってきた!
ヒラリと体を躱し、松の大木を背に構えた。盗賊は5人、それぞれ刀を抜き一斉に斬り掛けてきた。
安兵衛は懐から取り出した、用意の石入りの手拭いを武器に、瞬く間に5人を叩き伏せて、盗賊の刀の下げ緒で縛り上げた。道路近くの民家に連れて行き、邏卒(警官)を呼び、引き渡した。
その武勇伝は大きな評判となったと、祖母はいつも自慢気に話してくれた。
祖母・安女も八重垣流小太刀の心得があった。私が小学生の頃、木剣を振り回していると、私に裁縫の一尺物差しで相手になってくれた。いくら打ち込んでいってもヒラリと体を躱されたり、ピシャリ、コツンと頭や小手を叩かれた。私は、「痛い、参った」といっていたものだ。
祖母は金沢に初めて創立、開校した小学校の第一回生である。当時、女の子が学問を習得のため小学校に入るのは珍しかった。このような祖母に子供の頃、
「治一よ、お前は紙田家の後継りだ。必ず、鶏頭たるとも牛尾たるなかれ、という諺を忘れず、大きくなるのだよ」
と繰り返しいわれた。何事にも他に引けを取らない意志が生まれたのは、祖母・安女の教えの賜物である。
出口安兵衛は明治11年に大久保内務卿暗殺事件で刎頚の友の島田一郎を失い、気落ちしてか、病の床に伏して、ついに明治15年、帰らぬ人となった。
大久保内務卿事件に関係していたとの噂のため、出口家は当局の圧迫を受け、一家離散の憂き目にあった。
安兵衛の妻は同族の野崎家に再婚し、男子・与吉を産んだ。長女は養子を迎え関西に行っていたが、その後の消息は不明であった。
(未定稿)
[作成時期]
1989.01.13