【登録 2003/02/07】  
紙田治一 遺稿[ 通化事件 ]


ああ……悲劇の通化暴動事件!

十七、ソ連軍の通化入城


 このような混乱が極点に達していたとき、ソ連軍が通化に進駐して来た。八月二十三日である。
 その日の通化は死の街であった。女は全部屋内深く身を隠した。満人や朝鮮人でさえもが。
 駅前、通化橋、市内中心部のロータリーなど、要所、要所にはアーチが建てられていた。
「紅軍進駐万歳!」と赤い字で大書したアーチである。楊旧通化省長以下の日満要人が駅頭に出迎えた。手に手に赤い小旗を持って。
 正午すぎ、赤軍中佐に引率されたソ連軍五百名が、特別列車で到着した。緊張して出迎えた人達は、一様に驚きの目を見張った。
「エエッー、これが、あの赤軍なのか?」「ドイツを破り、スターリングラードの攻防戦を演じた兵隊なのだろうか?」それほど兵隊達は身すぼらしく、貧弱であったのだ。油の滲んだ軍服、泥にまみれた軍靴は、満洲とソ連の国境の数百キロを突破してきた彼らだから、それは当然だった。
 だが、大部分の兵隊が履いている長靴や軍靴は、どう見ても関東軍の長靴や軍靴ではないか。
 自動小銃を持っているのは約半数で、残りは日本軍の三八式や九九式小銃を肩に引っ掛けている。
 堂々たる体躯の兵隊も、もちろんいる。だが、日本の軍隊なら絶対に取らないと思うほどに貧弱な兵隊が多い。そして全く子供のように初々しい顔をした少年兵も混じっている。
 ドイツとの長い戦いでソ連もまた、兵員、装備の消耗が酷かったのであろう。このようなソ連兵を目の当たりにして、通化の日本人はまたもや関東軍を非難して止まなかった。
「あれなら、関東軍はやれたのだ!」「関東軍は腰がないのもほどがある!」「関東軍はだらしがない、恥を知れ!」と罵るのだった。
 進駐後二時間目には、早くも日本人がソ連軍に連行された。通化特務機関長後藤秀範少佐と機関員の須藤少佐、江角大尉、杉野中尉、五月女曹長などである。後藤少佐は既に部下の召集を解除し、書類は全部焼却していた。
 この日から、通化各部隊の武装解除が開始された。瀬川部隊長が部下によって射殺されたほかは、全部隊の武装解除は平穏に続けられた。
 野戦病院は最初捕虜として武装解除後、吉林に集合させられることになっていたが、柴田大尉は、「我が病院にはほとんどが重症の患者が入院している、中には肺結核の患者も多いので見捨てて行けない!」と、ソ連軍司令官に談判したので、そのまま診療を継続することが許可された。
 小銃五挺、小銃弾千五百発を自警用として、それに患者輸送車トラック一輛を残した。
 日本刀はソ連軍では兵器、武器とは考えず、ただ軍人の飾りとして見ていたので各自帯刀していた。その代わり、「軍病院の名称は棄てて、万国赤十字条約に基づく赤十字病院と改め、民族の差別をせずに、一般民間人も診療せよ」との、ソ連軍の要請を受け入れた。
 これまでの軍隊用語の敬語の「殿」は廃止して、「柴田部隊長殿」は「柴田院長先生」と、「松倉衛生大尉殿」は「副院長先生」と呼び、その他の隊員を「職員」、〓島、平井軍医中尉には「医長」か「先生」、上官の教官や、助教、班長には「さん」、候補生の見習士官軍医や衛生下士官の同僚間は姓の下に「さん」とか「君」とそれぞれが呼び方を変えて、ソ連軍の手前民間人らしく偽装した。その偽装下の赤十字病院は、通化駐在部隊の吉林移送後の、唯一の残留部隊として、四面楚歌の中に診療業務を開始した。
 診療体制は柴田院長の下に、〓島外科医長の指揮下に手術室に十名、外科病室に二十名の職員が、平井内科医長の指揮下に三十五名の職員がそれぞれ配置された。外来部門は内科(小児科診療を含む)、外科(皮膚泌尿科の花柳病診療を含む)、歯科、薬室、療工室等に各五名ずつの職員が配分されていた。その他の職員は松倉副院長の指揮下に庶務、経理、炊事、倉庫の任務にそれぞれ配分されていた。
 開院当初は外来民間人の患者は、大半が避難中に発生した負傷や疾病の治療が主であった。
 その後、日が経つにつれて、低料金か無料であったので一般の日本民間人が殺到して、外来待合室、診療室は急に活気づいていた。
 子連れの若い母親や、若い娘さんの患者も多く、軍病院では見られない華やかな雰囲気を醸しだしていた。
「武骨な将兵達!」「おっと、これは失言。間違いましたね。スマートな職員達でした!」その職員は毎日襟布を取り替え、毎朝髭を当たるようになって来ていた。
 評判が良いのでますます普通の疾患を持っている患者が増えてきた。また外科では花柳病患者の診療もさせられた。
 それは性病に感染した女性患者やソ連軍将兵が多く診療に来たからだった。病院の人の出入りが多いので門前や垣根沿いに、日本人、満人の両国の物売りが集まってきて、すっかり賑やかになっていた。通化新名所「赤十字病院通り!」ともなっていた。
 白衣の若くて凛々しい職員と、それに憧れる若い女性患者との間に、儚い恋愛ごっこの芽生えていた話もチラホラ出始めていた。しかし入院患者は、細川少佐以下百五十名で肺結核、急性伝染病の細菌性赤痢、アメーバー赤痢が多かった。疑似赤痢(急性大腸炎)の患者も混じっていたが、皆んな下痢が酷く激しかった。あまり下痢が激しくて便所まで行けない患者が多かった。その患者のために急造の木製腰掛け便器を病室内や廊下に設置した。
 激しい下痢が続くために栄養失調症になっていく患者が激増した。そして危険な症状を呈する数が日々増加の一途を辿っていた。
 薬剤は徹底して欠乏していた。リバノールの内服が赤痢の最高の治療薬剤であった。リンゲルの大量皮下注射、葡萄糖液の静脈内注射がせいぜいであった。赤酒(ワイン)も補助的薬剤であった。そのため死亡患者が続出した。
 元教室に十五名ないし二十名前後の患者の収容できる大部屋病室が八病室、さらに個室で患者が二名ないし三名収容出来るる病室が三病室であった。
 その患者が寝ているうちに死んでいるのだった。朝、夜が明けると一病室に一人か二人が死んでいるのだった。それも隣に寝ていた患者も知らぬうちに、静かに息を引き取っていたのである。不寝番の職員も灯りをつけるまで、死んでいるのもわからぬうちに、あの世に旅立ってしまっていた。
 患者運搬の一台のトラックは毎日死亡患者を火葬場に運び、荼毘に付すのが主要な仕事となっていた。また僧籍にある岡野宗光職員も読経に忙しかったようだ。最初は墓碑も建てて丁重に弔っていた。
 院内では患者も職員も死亡患者が連続して出るので気持ちが滅入ってきていた。ときどき娯楽室に軽症患者と職員が集まり、合同で演芸会を開催して、少しでも明るい病院にするように努めていた。
 よく唄われていた歌は民謡、歌謡曲、浪花節、詩吟などであったが、特に望郷の念に駆られて祖国日本に帰りたいとの想いに、次のような歌がよく唄われていた。
「船出の歌」、歌詞は……「船は出て行く故郷へ、恋し祖国よ故郷よ、母も待つだろう今頃は、嬉し涙で背伸びして」とか、または「誰か故郷を想わざる」、歌詞は……一、「花摘む野辺に日は落ちて、みんなで肩を組みながら、唄をうたった帰りみち、 幼馴染のあの友この友、ああ誰か故郷を想わざる!」、二、「ひとりの姉が嫁ぐ夜に、小川の岸でさみしさに、泣いた涙のなつかしさ、 幼馴染のあの山この川、ああ誰か故郷を想わざる!」。一人が歌い出すと全員が合唱していた。誰もが一日も早く祖国日本へ、そして懐かしい故郷へ帰りたい、そうして肉親に逢いたいと望んでいるのだった。
 またほとんどの者はお互いに故郷の自慢話をしたり、美味しかった食べ物の話に、また恋人との楽しかった想い出や、出来事などを話題にして、明日をも知れぬ自分達の身に迫る不安に襲われて、つい陰鬱に陥る自分の気持ちを、わずかなその一時だけでも忘れようと懸命に努力していたのだった。
 しかし現実は厳しかった。翌日からは激しく、また暗い任務が待っているのであった。
 食糧節約のために食事が米にコウリャンが混ざるようになってきたのもそのころからであった。

 日本刀没収事件。……それは、ソ連兵が白昼路上で若い日本婦人を暴力で強姦していたのを、ちょうどその場に通り合わせた日本人が、それを見て早速近くの憲兵隊に通報した。原憲兵准尉がおっとり刀で駆けつけた。
 ソ連兵は若い日本娘を全裸にして犯していた。それを見て強く制止したが、ソ連兵は相手にせず構わずなおも犯し続けていた。それに対して原憲兵准尉は怒り心頭に達して、やにわに腰の日本刀を抜き放ち、女の上に重なり乗っていたソ連兵を背後から袈裟掛け一刀両断の下に斬り捨てた。
 もちろんソ連兵はその女の腹上で即死である。その後間もなく原憲兵准尉は駆けつけて来たソ連兵に問答無用とばかり、無念にも射殺されて非業の死を遂げた。
 これまで日本刀を、「将校の軍人の単なる飾りだ」と考えていたソ連軍が驚いた。この事件で、「日本刀は立派な武器だ。それも凄い殺傷力がある!」として、慌てて追加して没収を開始しだした。
 なかには油紙に包んで地下に埋めたり、井戸に吊るしたりして隠した者もいたが、ほとんどは残念ながら没収されたのであった。
 ソ連兵は武器隠匿の臨検と称して不意打ちに我々の持ち物を調べに来た。だが武器捜索はただ口実であった。必ず身体検査をして目当てである我々の時計、万年筆を見つけると、やにわに銃を突きつけて、「ダバイ!」と取り上げて持ち去るのであった。
 酷い日などは一日三回で、朝、昼、夜の三食食後に現われた。

(未定稿)

[作成時期]  1989.04.11

(C) Akira Kamita