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デリュージョン・ストリート 06

祝祭という詩篇

 祝祭の季節が移ろっていったためか、生きかつ死ぬでもない半ちくで妙ちきりんな世の中と相成った。そしてその頃から、時代の悪い風が吹き始めた。街の中には夜であるべきときですら何やら人工的な光が鉱物じみた粉片となって漂い、宙宇にはまた、罅割れた無数の透明な球が浮かんではゆらめき、ぱちんと音たてて弾けていた。石鹸玉のような 物体(オブジェ)ばかりだと、口をへの字に曲げてみた。
  シャムペイン伯より一荷、反時代の矜り
  出会ひとは今を命日とする塒だらうか
   野巫(やぶ)の外では神が球根をおきかへてゐる
“EKTOPLASMA”の句が凛として清々しいのは、何よりこの句の姿勢が超然としてこの地上を跨ぎ越えているからである。
 ところで当時、そのことと関連してだったか、純粋思考ということを考えていた。それは永続的な否定思考の向うに生み出される無限の増殖性ということである。――物質という存在が存在の一形式にすぎず、その形式を充たすべく凝縮された時間によって造形されたにすぎぬものならば、地球とその周辺はいかな実質でもありえない。換言するに、瑣末な発明品でしかない時間の法制化におもねて、失われた宇宙領を奪回せんと謀る、ここの衰えた神によって鎖された実験場にすぎぬというわけだ。だが、ここには時間が存在せりという与件だけを応分の神聖儀礼にしたとしても、多神的な厖大な数の宇宙領がすでにここここの作法に従って交錯している。思考すべき存在はなべてそれぞれの宇宙領の露頭であり、ここの側から見ればそれぞれの宇宙の代表的存在であり、地球的実験への介入であるやも知れぬ。だから、地上的存在としての神聖儀礼、つまり肉から解放されれば、それぞれの宇宙領へ帰還することになるのだが、そのときいささか混濁が生ずるようである。思考とは無限の否定という姿勢である。混濁とは、帰属せるとか収斂さることに対する直観的な戸惑いを惹き起こす思考に他ならない。純粋思考とはこれを突き抜けることによって到達できるものであり、それ自体思考的実体であり、ここで改めて己れの帰属すべき宇宙領とその全体性をさえ否定しつづけ、ついにはまったき別箇の宇宙として自らを生み出していくのである。純粋思考とは窮極の次元の存在であり、宇宙的次元ではその根本原因であり、この非和解的、永遠の否定運動が存在と宇宙の無限の自己増殖を誘きだすわけだ。――
  一満月一韃靼の一楕円
  五月、金貨漾ふ帝王切開
       『球体感覚』
 それはたしかに、ないものをあらしめる呪法であったのかも知れない。しかし、世の中は現象の尻尾に振り廻され、切り口の多様さだけに拘泥し始めていた。「批評の回向/声/のない論争のたけやぶやけた」(「弥勒」)――。だが、祝祭における混濁とは、傾いて立つための戦いである。金太郎飴などトンチキにまかしておけ! 爾来、何もかもが滞っている。そう、夜さえも。
 思考のためには夜が必要なのに、夜はいつも稀薄だった。しかし、そのバーは違っていた。充実した黒さを思わせる扉を排して入ると、酒壜の並んだカウンターの奥で、夜の仄かな身重とでもいうべき蝋燭がゆらめき、やわらかな(ほむら)に唆されて、特徴のある横顔の輪郭が浮かび上がった。写楽! そう思うか思わざるかの間の間に、こちらを振り向いた顔のあるべきあたりには烏夜玉の力強い闇が屹立していた。その深い暗黒は魔物めいたおどろおどろしさとはきっちり袂を別って、天狗のような爽快な男らしさに溢れていた。それがただ一回きりの出会いである。
 かの人はその神通力によって、時をへだてた祝祭の幻を再現した。かの人は眼の (うから)でもあるので、ゆらりと立ち上がると右手を空間の距離を越えて差し伸べ、時間というお喋りを黙らせてしまうような炯々たる双眸でこちらの向うを見据えたきり、何ものかに踏み込む際の姿勢の傾きをゆるがせることもなく、永遠の握手をつづけるのだった。
「地上での思い出に」、かの人はいつもそう考えていたのかも知れない。かの人は祝祭という名の詩篇を築くために、自ら前のめりの詩語と化し、才能の王たちという言語群に体当りしてきた。あの祝祭はエポックメーキングな、ポエジーそのものであった。そしてその司祭は、断じてかの人なのである。才能の王族を招じるためとはいえ王領の秘境にまでのめり込むごとくの探検を敢行したのは、ポエジーへのひたむきさと祝祭への豪宕な意志のなせるところである。
  遺書にして艶文、王位継承その他なし
  棘の遠感に花うけてゐるユレカの子!
  果実は熟れ過ぎないやうに手で考へながら
  はじめに傾きがある/手足を食べる/手足のななめ十字架
 鋭く踏み込み、くたくたにならざるをえずには、王たちのこれら珠玉のオマージュは不可能だ。『眺望論』『遊牧空間』と併せて、それらはこの冒険者の血みどろの孤独と傷だらけの戦いを物語る逆証明である。『荒れるや』とは、この祝祭(シンクレティズム)への讃歌であるとともに、これら荒らぶる神々と諸王への鎮魂である。そしてその頂点で、かの人が生き死にをかけて突っ立つことを身を以て示した祝詞こそ、『牧歌メロン』なのであった。この言語混濁の極致ともいうべき句集は、青臭い言語遊戯とか言語実験などとは一線を画し、純粋の深みを導き、ものを生み出す力に溢れる、いわば江戸前の汽水のごとき生命力の坩堝である。
 かの人と遭遇したのはずいぶん以前のことだが、そのときついに『後方見聞録』で涙したとは言い出せなかった。この愛すべき詩人は再び、「白鳥」の詩人と『旅人かへらず』の詩人との原初的な三一致の地点から新たな楕円を描こうとしている。この悪い時代に敢然と背を向けるがごとく、また時間が前に進んでいるなどという迷信を嘲笑うかのごとく、純粋な孤高に達している稀有の詩人、イクヤとは誰だろう?

(初出 詩誌『詩学』第40巻第5号、1985.5刊)




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