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【詩篇】紙田彰



シオクジラの塩の粒をつける


都市という断崖の見えるもの
きちがいじみた世界都市の実質的なローカリティ
シオクジラのブツ切りの頭から
螺旋階段を降りきると
塩のこいうすい
図書館にたどりつく牢獄
ぼくらはそこで
一九六九年の夏をめくる すばやく
すばやく その冬もとじられる

だめよ
熱い窯のように
麦酒を写真にこぼすといけないわ
いけないわの危険 ただれ
けむりと泡

粒子のあらいモノグラム
黄金色にあらあらしい紙魚
会話のはしばしにただよう麻薬
ぼくらはたしかにこの場所を占領しているのだったか
占有しないで とらえどころもなく
そして 光といういい加減な原罪 そして
光は アルコールの匂いを放って捨てる

雑沓の中という部屋 透明なコンクリート
岩だらけの暗黒の室内路上
持ち主は二千年の老衰を生きる
車輪のついた箱を動かす女たちと
おお その中に眠る
忘れたばかりの匂い
額に浮いた脂が
情欲の吐息の青さが
妙に毒々しい毒だ 炎だ 湯気だ たましいの
さめきった

腰をしぼる女の手の 内側に曲げられた指の
ひるがえるときの音楽 ひとすじの髪の毛の瞼
壁をへだてて
壁をへだてて
火の匂いがする
いささかセクシュアルな

また 一九七六年十二月十五日 冬
顔を洗わないヒジカタさんがいた
この日没落した いや
人工的な国家、実験場、収容所、流刑地、逃避先、すべてを放棄させられたものの新天地
没落寸前の国家の首都の夜の目のからっぽの……教会の隣の黒い目の目の目の
赤不動であるわけはない足 浮かんだのだ 禁忌を冒して
シューベルトだったかリストだったか
資料によれば資料はインクであって形象ではない
肉の光であって昼の光ではない
心とか 何もなくても平気ということ
このようなことは
人間が累積的に存在するのだということを凌駕しているのかも知れないアメフラシ
暦など死んでしまってからは何の役にたつ 人形の内臓という空洞
〈さかしまに溶けゆく匂ひのラワンデル
 美酒が立つ その日 その日よ!〉
ヨーコは跳んでいたのだ

〈そもそも中二階なのか、あるいは天井から吊り下げられているのか、中空に舞台があって、そこで一人の女が踊っていた。踊りは佳境を迎えているようだった。
細い糸のようなスポットライトの光が煙の罩もる空気の襞を射通して、ステージの一点を鮮やかに照らしていた。バロック風の、繊細な、それでいて畳みかけるような旋律が静かに流れている。フットライトが徐々に光度を増していった。褐色のセロファンが貼りつけてあるのだろうか、退嬰的な淡い光の束が幾度となく舞台を舐め廻している。
気の遠くなるような幻惑の装置の中で、ダンサーの体は流れていた。流れているとしかいいようのない微細な曲線を歩いているのである。エキセントリックな、弦楽器の病的な喘ぎが聞こえ始めると、ダンサーは片足の爪先の一点に体重を注ぎ小刻みにふるえだした。獰猛な嵐に逆らって、蒼穹(たかぞら)を翔け抜けるような肉の振動。緋色の、縫目のない薄い衣裳のふるえが、なによりもその筋肉の闘いを伝えている。
ダンサーの体が栗鼠のように小さくなっていった。どこまで縮んでいくのだろうか。ついに舞台の上の一点の赤い滴となって、そして……。そして次の瞬間白い貌だけがきわだって印象的に、深い苦悩の皺を泛べて巨大化した。ダンサーの痩せた白い貌につややかな凝脂が漲っている。
沁み入るような音楽が、そのとき破綻をきたした。女の体を包んでいた真紅のドレスが勢いよく四方に拡がり、炎のように燃え上がった。静止していたかに見えた体が独楽のように、三角形に広げられた赤い布の下端を支点にしてくるくる廻転を始めたのである。凄じい速度でティンパニーが叩かれた。聴覚に対する殴打。女は宙に躍った。四肢をいっぱいに広げる。白い肌が眼を射る。宙にありながら激しくターンした。
女の、眉のない、異様にのっぺりとした表情の中に、舞台の、ショーの、すべてが吸い取られ、強烈なライトの洪水の中で、布を介して透き通る白い体が、みるみる光沢を生じていくのだった。〉

ニンジンが好きかというときに見てしまった
ナガタサンにぜひ会いなさいという声の
溶けてゆくような肩
知りません 知りませんと
正確に二度繰り返していた
最後の夜から逃げ出すために

舞台を飛びまわる布
錆びた黄色
筋肉がにぎる弓
花束の中に仮面を匿し
くちびるに紫色の毒が塗られる
ささやきかける舞姫は
乳房に静脈を泛べ
體を開く

軽やかさのうちにある酷薄さ
膝頭にするどい痛みが疾り
しだいに眼が遠くなる

白い貌を闇の中に浮かべ
青味がかったくちびるでささやく
乳房の巨大な女が
硝子の中の血を舐める
ビローな話だビロー
刃物は一本の光の向うにある
突くかまえのときは
肘をむすび
さもなければ
とろけるだけだ
起伏だけなんだな
反応だよ、ただの
形はいい 声もいい 強さもいい
ただ眠ること
ただ眠ることの
光を殴打する

しっとりと天鵞絨の翳りを帯びた砂浜
頭の中を音楽が疾る
蓋が抜け飛ぶような
宇宙の唸り

神秘が現れたってただそれだけのこと
いないのは霊だけだ

(1988.7.27.)


(c) Akira Kamita

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