【登録 2011/12/09】  
紙田彰[ 散文 ]


〈自由とは何か〉
自由とは何か[009]

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 皮膜などはたしてあるのか。BはB'に対して方向性を持っている、と仮定される。なぜならBとB'には互いに異なった磁力が存在しているからだ。BとB'の引力と斥力の混沌は極大に達しているかもしれない。そうだとすると、それは何に起因しているのか。
 異なった磁場を持つということは、皮膜の内部がキュリー点に達し、そのことによって、それぞれの磁力が崩壊してしまうということなのかもしれない。いずれにしても、方向性などはまるであてにならない。

 ――意識Bよ、〈私〉の内部にはおまえなどいたためしはないのだ。〈私〉はおまえとは無関係な領域におまえという非在を内包しているのだ。しかし、それは二つの意味で、おまえは〈私〉を絶対的なものとして捉えてしまっているということになる。つまり、〈私〉がおまえと無関係だという点においておまえは〈私〉に関係を強制しているということ、また非在を内包していると〈私〉にいわしめることで〈私〉の非在を明かしてしまっているということ。そのような混乱が増大すれば、元には戻らない。〈私〉はもはやおまえを認識さえしていないのかもしれない。相手のいない譫妄に陥っている〈私〉は、磁力に従っているというよりも、意識Bそのものに遷移しているといえるのだろう。意識B'を喪失したおまえそのもの、意識Bとして。

 皮膜は確かにあるのだ。BにおいてB'は隔てられたものだ。重力と磁力が溶融しているような状態ではすべてが見えなくなってしまうように、皮膜のあちらとこちらの磁場がそれぞれに高温にさらされているのかもしれない。その安定しない状態にあることで、あらゆる事象との結合が容易になっているのだ。――あるいは散乱現象。Bにとっては皮膜が熱によって混濁すればするほど、内部に押し込められることからいっそう離れた場所にいることになるのだから。
 斥力は引きつけあう力をその出自にしているはずだが、その根元であるすべてが平坦フラットな場所、つまり力のすべてが内側に押し込められている状態を原因にして弾けてしまっているということになるのだが、それはじつは跳ね返る重力というものを、そして重力はどこに行きつくのかということを暗示させざるをえない。
 だが、問題はBやB'も純粋分離しているのではなく、意識、、意識、、であるということだ。いや、そうではなく、「その、、意識」であるということなのだ。
 意識はそれ自身で存在できないのだから、そのことからどのように脱け出ることができるというのだろうか。そのようなしだいであるから、意識Bと意識B'は連続的に抑圧されているに違いない。――何に?

 けれども、熱を帯びて全方向を失い飛び散っていく意識Bと意識B'は互いの空間的距離、あるいは同様にすべての記号と記号'との間の距離を広げていく。みるみるうちに、、、、、、、。そのことは、みるみるうちに、、、、、、、時間的距離も広がっていくということだ。時間も空間も個別だから、力というつながりを残したまま新たな皮膜に囚われているということになるのかもしれない。もちろん、低温状態のそれぞれは独自性を獲得し、つながりを見ることはできない。なぜなら、ものとものとの間はすっかり晴れ上がっているからだ!
 そして、限界まで離れてしまうと、新たな問題が発生する。すべての力が重力にすりかわっているのだ。それは、ふたたび死と強制の道を意味するのだろうか。引きつけあうこと、結合していくこと、宇宙の全重力がすべて重なっていくこと!

 私は私の意識が多重性をもち、複数の重なりであることを否定するつもりはない。私自身を含めて私の意識たちが囚われているに違いないことはうすうす感づいている。本当のところ、私たち意識の問題は、私をとらえている私たちの直接的な皮膜にすべて起因しているのだと。私の意識がいくら重力についての議論をしていても、意識におけるすべての問題はこの直接的な身体機構にあることを。

全面加筆訂正(2011.12.23)


[作成時期]  2011/12/23

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(C) Akira Kamita