【登録 2011/12/12】  
紙田彰[ 散文 ]


〈自由とは何か〉
自由とは何か[012]

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 意識、このことばを何の定義もないままに使うことを浅薄だと、私は断定できない。たしかに、感覚と情緒に深入りすればそれはつねに危殆の淵を辿ることになるだろう。そして、そのことでいっそう裏切られつづける。しかし、私はそのことばを、従属する意識あるいは抵抗する意識として使っているのかもしれないし、あるいは反意識という意味で使っているのかもしれない。ただ、だからといってはたして意識ということばを定義して用いているのかいないのか。

 ところで、また別に、幽霊の挿話ではそのことについていくつかの問題が提示されている。すなわち、「形象」が現れる。爛々と光る眼球。長い布を蔽ったもの。暗い空間。形象だよ、形象、これが肝心なんだ、という巽の方角からの幽鬼の声。これらは叛乱の予兆であるのか。そして、意識たちはいまだ頭蓋骨に閉じ込められているのかどうか。私が捉えている複数形の意識は、第一義的には脳内の部位において形成されるもの、次には肉体の部位から神経線維を伝播してくるもの、さらには最下層に棲息するもろもろの細胞から押し寄せてくるもの。これら原意識とでもいいうるものは、脳内で処理され、統合意識となってまたたくまに頭蓋骨に閉じ込められてしまう。しかし、脳内で統合処理されれば、それまでそれぞれであったものがすべてなくなってしまうのだろうか。
 いったい、だれがどのような方法で、そのような削除をするというのだろう。あるいは圧殺のマジック。私は考えざるをえない。細胞それぞれの思いは脳に届くか届かざるにかかわらず、恒常的に発生しつづけて蠢いているのではないか、と。

 また、肉体と意識は頭蓋骨の内部において支配されているのかどうかという疑問。頭蓋骨自体が身体機構そのものであるのか。あるいは身体メカニズムの筐体といいうるのか。それとも、肉体を抑圧する牢獄、その法制化。さまざまの問いかけの前に立ちはだかるのは、頭蓋骨という骨格的根拠である。たしかに骨格という強制と境界は、外界との遮断によって、あまたの肉体部位、細胞、意識を調教し、馴致させるに充分なのだろう。それは暴力的な抑圧、信仰の飴と鞭。秘蹟と犠牲。無知の無知。食物連鎖。ああ! ああ!

 けれども、骨格が支配しているというわけでもない。法が支配するというデマゴギーにたらしこまれている人民よ! 頭蓋骨は容器であり、良くも悪しくも悪徳の秘密を保護し、隠蔽する修飾機能でしかない。これも単なる細胞の集合体であるからだ。たしかにむきだしの肉体を蔽う頭蓋骨は牢獄というに相応しく頑丈で魅力的な骨格だ。ここには生々しい臓物、頭脳という内臓が特別に分離・格納されているからだ。
 ところで、頭蓋骨の細胞は看守なのか反逆者なのか。私は鉄格子です、燃やしてしまえばぼろぼろに剥がれる鉄格子、という返答が期待される。だが、そのような問いかけは矛盾している。それは、頭蓋骨への問いかけから離れて、脳味噌自体に対する問いかけであるべきなのだ。すでに頭蓋骨は幽霊の役割に埋没しているのであるから。

 あるいはまた、脳の意識という転倒。脳は部位としての分離領域は持つが、それを自発的な意識の集合体といいうるのだろうか。末端の細胞との距離からみても、それぞれの意識という詳細項目とは一線を画している。脳は個別の意識を持たないと。そう、私は次のように考える。脳は統合的な管理システムに違いないと。脳の分離領域の細胞は主語のない単なるメカニックな機能なのではないか。そして、肉体の全意識を抑圧しているのは、第一義的にはこれらを統合する役割を持つ脳のメカニズム。と思わせるもの、無尽蔵なものたち。

 ――では、私どもを官僚機構とでもおっしゃりたいのでしょうか。
(分離主義者にへりくだったことばづかいをする必要はないぞ)(余計なことを考えるやつらは神経回路を閉ざしてしまえばいい)(それこそ監獄行きだ)(しかし、独自のアイディアという生産物が得られなければ、身体機能が涸渇するかもしれない)(まあまあ、まあまあ)……。
 私どもは、身体壮健に、思想穏健に、安全な暮らしと国家経営をしなければなりません。それが、人間の生活というものです。それなのに、複数の意識を容認するなどということは危険きわまりない。私どもは、そのような危険分子から国体を護るために、さまざまの統制を駆使して善処しているのであります。
(そうだ、それが脳内ルールだ、法律というものだ)(われわれはひとつ)(われわれはひとつ)(われわれはひとつ)(われわれはひとつで全体!)(そうだ、そうだ)(おい、いっせいに同じことを言うとファシズムになるぞ)

 と、脳について私が考えているわけではない。私は、そのような脳と神経システムとは何かについて思いをめぐらしているだけなのだ。脳が作った日常、脳が見せている現実、本当にそのようなものが私が考えている、見ることのサイズであるのか。

全面加筆訂正(2011.12.23)


[作成時期]  2011/12/23

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(C) Akira Kamita