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毀れゆくものの形

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   第 二 章

 ズリ山の鋸歯状の山容によって抉られた七月の空が、その青さをいよいよ深めようという頃に、早彦はそいつを見つけた。その日、鶉町の二つの中学の統合が正式に決まり、それに反対する教職員のストライキが決行されたため、生徒は学校から午前中に解放されていた。町の人口が減っていることは知っていたが、早彦にはそれが取り返しのつかぬことだという実感はなかった。それでも、いつもは学校にいて見ることのできない時刻の、活気の乏しくなった町の姿を知るいい機会だと思って、一度帰宅してから外へ出てみた。絶頂の時期を過ぎて急速に没落していく炭鉱町は、そのメインストリートでさえ、近頃、とみに走る車の数が少なくなっていた。けれども、灰色の舗装道路は燦々と降り注ぐ太陽の光を存分に吸い込み、きらきら輝く光の粒を撒き散らしていた。坂になったあたりでは、透明な水のような蜃気楼が浮かんでは消えしていた。早彦は、その光の交錯する道に気をそそられて、ぼんやり眺めながら歩いた。気の遠くなるような、午後の緩慢な時の流れが身を浸していた。市街地のこの森閑さは無窮のもののようにも感じられた。
 そいつは隣町行きのバスを、停留所の廂の下で待っていた。そいつは褐色の薄汚れた作業着を着て、だぶついたズボンに両手を突っ込んでいた。あのときの恰好とまったく同じだった。――自転車泥棒、早彦は胸の中で叫び声をあげた。しばらくためらった後、早彦はバス停に近づいていった。
 じきにバスがやって来た。そいつは早彦に気づいたふうもなく、バスの行先を確かめると、車掌からパンチの入った薄紙でできた切符を受け取り、前の方の座席に坐った。早彦は最後尾の席からそいつを窺うことにした。
 市街地の道路を右折して国鉄鶉線の踏切を越えると、両側に石垣を嵌め込んだ切り通しにさしかかり、その先は急峻な坂道だった。前にのめりそうな気がして、早彦は前の座席の背に渡してある手摺を握りしめた。道筋のところどころに小さな谷が走り、その向こうに町営の焼場と屎尿処理場が見えた。緑の深い山並が近づいたり離れたりしていた。長い坂を降りきると、蜿蜒とした道が続く。それにつれて、山肌が迫りくるような景色は後退し、山間を縫って箱庭のような田畑が現われる。バスの振動が単調なため、軽い眠気に囚われながら、いったいどこまで行くつもりなのだろう、と早彦は思った。

 ――自転車で遠乗りしての帰りに、早彦は陸上競技場の跡にさしかかった。そこは一昔も前、炭鉱が好景気を謳歌していた頃に、鉱山会社が山腹を切り拓いて造ったもので、今は名も知れぬ雑草が生い繁り、手を加えることもなく打ち棄てられていた。その傍を通る砂利道も、ほとんど人の行き交うことがなかった。夕陽が沈もうとしていたので、早彦はペダルを踏む足に力を入れた。家々の林立する煙突からゆらめき流れる夕餉の烟が、山道の高みから一望すると、細長くつづく町並を霞のように包んでいた。
 そのとき、あたりに谺する大きな罵声と殴打する音が涌き上がった。思わずブレーキをかけると、叢の奥から白い開襟シャツの若い男が飛び出してきた。しかし男は、早彦に一瞥をくれることもなく、「おれたちは出ていく。そんなに先のことじゃない。こんな煤けたところは沢山だ。いいか、これはおまえの女房が言い出したことだ。ふん、おまえは一生ここで穴でも掘っているんだな」と吐き捨てるように言うと、後も振り返らずにどんどん坂道を下って入った。早彦は自転車を道端に停めてしばらく様子を窺っていたが、叢の向こうからは誰も出てくる気配がしない。ただ、噎び泣くようなかすかな声がした。早彦は跼みこむと、丈高い雑草を掻き分けて、その奥を覗いてみた。
 くたびれた作業着の中年男が、頬に手を当てて蹲っているのが見えた。楕円形をした四百メートルのトラックが草に埋もれているのとは対照的に、中央にある砂場を中心にした窪地がぽっかりと地肌を覗かせていた。そこにくずおれた中年男は、自失したような虚ろな眸で夕焼けを眺めていた。すでに夕陽は山蔭に入り、山頂に漂う雲が縁に赤味を残しているだけで、あとは暮色が濃くなっていた。
 森閑とした山の中で、早彦はなおも跼んでいた。男の人相がよく分からなくなっていた。まだ泣いているのかとも思ったが、足を投げ出して溜息をついているだけのようでもあった。男はそのうちに奇妙なことを始めた。ズボンのジッパーを下ろすと、股間から黒々としたものを取り出すのだった。そして、低い唸り声で、ばかやろう、ばかやろう、と何度も繰り返した。早彦はその黒いものが膨れ上がっていくのを見ていた。
 男は勃起したものを握り、忙しく手を動かし、息を弾ませていた。月が腐蝕したような色を帯び始め、夜風に山中の草や梢が擦り音を洩らしていた。雲の間には一つ二つ星が瞬きだした。初夏に入っているというのに、北国の風はまだ冷たい。早彦は身震いした。山々の稜線の際に残された仄白い光がまったく消え失せると、妙に澱んだ色の月が、あたりに朧ろな光を投げかけていった。
 男の股間から、その不吉な月めがけて、夜目にも鮮やかな、白いものが迸った。卒塔婆の間をうろつく鬼火のように、肉体から脱け出ることのできる生命の原型のようなもの、早彦の脳裡をそんな考えが掠めた。
 その瞬間、「誰だ!」という鋭い声が放たれた。男が茂みの向こうで仁王立ちになって睨みつけていた。早彦は飛び上がってしまった。男はズボンに性器を押し込みながら、駈け寄ってきた。その顔は月の妖しい光に照らし出され、涙の痕跡を貼りつけたまま男の性器にように赤黒く腫れ上がり、吊り上がった目には、早彦の心臓をつかみとらんばかりの狂暴さが浮かび上がっていた。早彦は山の斜面を転がるように滑り降りた。
 誰も追いかけてこないと知ったとき、早彦は炭塵の流れる黒い川の畔にいた。息をついて山腹を仰ぎ見ると、人魂のような光が浮かんでいた。そして光が首を振るようにゆらめくと、次第に速度を増して山腹の道に沿って流れていった。男が早彦の自転車を持ち去ったのだ。あの光は自転車のランプに違いなかった。
 早彦は人けのない木橋を渡りながら、ぬめりを帯びて流れる黒い川面に、自分の細い影が月明りのために長く伸び、頼りなげにゆらめいているのを見つめていた。

 前方のどこの窓からか虻が紛れ込み、羽音を立てて飛んで来た。バスの中に吹き込む風のため後方に追いやられた虻は、旋回すると早彦に纏いつき始めた。嫌だなと思って手で振り払うと、虻は本格的に早彦を襲いだした。痛っと思ったときには、もう額に虻の埒を頂戴していた。早彦は額を押えながら心細くなってきた。隣町へ入っても、そいつはバスから降りる気配を見せなかった。ポケットの中を探ってみたが、行先によっては帰りのバス代に欠けるかも知れない。途中で諦めることになるのかなとも思った。
 そいつを後ろの席から観察していると、何か落ち着きがなく、苛々しているように思われた。座席の手摺を煤けた黒い手で握りしめ、いっかな手を離そうとしない。早彦のところからも、手首に浮き出た静脈が、手摺を握り直すたび、痙攣でも起こすように弾けるのが分かった。そういえば、ときどき見せる横顔は蒼褪め、その表情も硬ばっていた。
 そいつがようやく腰を上げたのは、隣町の中心地区を過ぎて、町の奥にある炭住地帯にさしかかってからだった。早彦は、立ち上がりかけたそいつの作業着の胸のあたりに気をとられた。その膨んだ生地の動きに不審を抱いたのだ。ジャンパーの粗い布の動きに背くかのような不自然な皺が現われ、そこだけ切れ切れになった冷たい硬質の線分がとどまり、布地の奥に重たい異物が潜んでいるような気がした。
 そいつはバスを降りると、時計を見ながらしばらく立ち停まっていた。早彦はそいつの脇を通り抜け、近くの建物の蔭に廻り込み、信用金庫の名を記した看板の後ろからそいつを窺っていた。そいつは道路を渡り、寂しく静まり返った昼下がりの路地を木造の集会所めざしてゆっくり歩いていた。継ぎ目から湯気を吹き出している太いスチームパイプが、何本も空中に張り渡されている。集会所は炭住街につきものの娯楽施設で、映画の上映や芝居小舎としても利用されていた。安保闘争のときには、その拠点ともなった。モルタル塗りの建物までの道のりは、早彦の立っている場所からすべて見通すことができた。
 作業着の男は、集会所の傍の掲示板のあたりで立ち停まった。合理化反対と大書されたビラが風にはためいていた。背中を丸めた男がゆっくりと振り返った。その目が早彦を見つめた。早彦はそう感じて、看板の蔭で身をふるわせた。けれども、そいつは早彦を睨みつけているのではなかった。そいつは、早彦の隠れている建物を、この町にただ一つある信用金庫を見ているのだった。数秒の後、それに気づいた早彦は、窓から建物の中を覗いてみた。数人の職員と客がいるだけで閑散としていたが、人の動きが停滞しているというわけではなかった。早彦の目が、その中の一人の男に惹きつけられた。
 早彦があわてて振り向くと、掲示板の前に立っていた男が背を向けて歩き始めていた。炭住街の中心から外れた粗末な家並のある通りに入り、その裏手に流れる川の方へと下りていった。それにしても、距離にして五百メートルほどのことに過ぎない。川には石炭を選別した後の廃水が流れていて、水は黒く澱んでいた。川岸には泥炭の堆積ができ、濡れて黒光りする表面が太陽に晒されていた。涸いて粉炭になったものを貯蔵する掘立小舎もあった。
 早彦は川辺には下りずに、隈笹の繁みに入ってそいつの様子を眺めた。そいつは掘立小舎に入り込むと、しばらくしてから出て来た。それから泥のついた手を黒い川の水で洗うと、胸ポケットから手拭いを出して、それで拭った。そいつが手拭いを出すときに、あの硬い膨みが消えているのを、早彦は見逃さなかった。
 男が表通りの方へ姿を消してしまうと、早彦は入口に垂れ下がっている蓆を引き上げて小舎の中へ入った。案の定、小屋の隅には何かを埋めた形跡があった。湿り気を帯びた粉炭の小山の一角を指で掘り起こしてみると、ぼろ布にくるまったものが現われた。取り上げると、ずしりとした量感が伝わってきた。早彦は、自分の妄想が目の前に形をとって現われたのを知った。薄暗がりの中に、鈍い光沢を湛えた拳銃があった。旧式だけど、綺麗な形だ、この繊細な銃身、引金の微妙な曲線、美しいな、早彦はそう思う。死と一直線に結びつく崇高な器械――。これが安全装置、そう呟いて、低い金属音をたてさせた。早彦の緊張した心臓の鼓動を慰撫するような優しい音――。早彦は掌で何度も銃身を擦っていた。冷たい感触が伝わり、脳髄を痺れさすような快感を覚えた。
 その拳銃は早彦をすっかり魅了していた。そして、それにとどまらず、殺意さえ(おび) き出し始めた。蓆が風に揺れてめくれ、そこから入り込む光が拳銃を舐めるたびに、早彦は自分が殺人事件の犯人になっている姿を想像した。信用金庫が閉まる前にあの男は必ずここに戻ってくる、そのとき銃口をこうやって突きつけたら――、そう考えると愉快になってきた。弾丸は入っているのだろうかと思い、弾倉を開けてみると、確かに六発全部が装填されていた。リボルバーを元に戻すと、カシャッと小気味のいい音が響いた。けれどもそのとたん、ぎくりとして、早彦は小舎の中を見廻していた。狭い小舎の中に、あの男が潜んでいるような気がしたからだ。腋下を冷たい汗が伝った。小さな粉炭の山が一つあるだけで、誰もいるはずがなかった。早彦は、すぐにもあの男が戻ってくるような恐怖に囚われていた。
 早彦のしたことは、涸いた粉炭をほんの一掬い、銃口へ注ぎ込むことだった。そのとき、天井を向いた照星がきらりと光った。早彦の眸にその光が吸い込まれた。早彦はぼろ布を取り上げ、銃身を先の方から丁寧に磨いた。どんよりした光沢に包まれた拳銃を布でくるむと、元通り小舎の片隅に埋め直した。

 信用金庫と隣の建物との間に、ようやく人が通れるくらいの隙間があって、そこに入り込んで背伸びすると、早彦の背丈でも、鍵の掛けられた窓から中の様子がよく見えた。ガラスの向こうの物音は聞こえないが、早彦にはなおのこと、人形芝居を見るような、往来とは遮断された異世界が箱に入って滞っているような気がした。正面の壁の柱時計がもうじき午後三時を示そうとしており、客の姿はなく、何人かの職員が帳簿類の整理をしているだけだった。
 開襟シャツを着た若い職員がカウンターの下の潜り戸を抜けて出て来た。その男は、あのとき、陸上競技場の叢から出て来て、捨科白を残して立ち去った男だった。早彦は、この男が狙われているのだと考えていた。もう箱の中に手を入れることはできない、ここで、こうして見続けているだけだ。早彦はこれから起こるはずのことに心を躍らせた。
 その若い職員が鍵束を左右に揺すりながら正面玄関に向かおうとしたとき、ふいに扉が開き、客が一人飛び込んで来た。職員がその客に何か言いかけて顔を上げたとき、思わず怯んでいる様子が伝わってきた。それから、入口で二言三言、言葉が交わされたようだ。早彦は、その客があの自転車泥棒であることに満足していた。
 若い職員が口を開いて何か叫んでいるように見えた。他の職員が玄関の方を一斉に注目した。それと同時に、若い職員が突き飛ばされよろめいた。作業着を来たそいつの右手に、ぬめりを帯びた拳銃が握られていた。
 そいつは大金庫の扉の前に座っている老人に拳銃を向けて、しきりに何か喋っていた。職員たちは目を瞠いたまま総立ちになり、両手を高々と掲げていた。彼らの硬ばった眸を見ていると、涙腺が麻痺でもしているように思われた。突き飛ばされた若い職員はじりじり後退り、カウンターに貼りついていた。
 しみのついた風呂敷の四隅が結ばれるのに、それほどの時間はかからなかった。茜色の陽光に晒されているにもかかわらず、風呂敷包みを抱えた男の顔が妙に白くなり、平板な造作がよけいに平面的になり、まるでゆらめく蜻蛉のように見えた。
 柱時計が時報の鐘を打っているのだろうか、信用金庫内にはりつめていた緊張がわずかに弛み、全員の注意が早彦には聞こえぬ音の方に移り、耳をそばだてているような気がした。ほんの一瞬、緩慢な時が流れたように感じた。
 拳銃を握りしめたそいつの目が憎しみの光を宿らせて炯った。それに感応するかのように、銃口が鈍色の光を軌跡に残して、カウンターに貼りついている若い男に向けられていた。
 凍りついた若い男の唇の端から泡が洩れているのが見えた。彼がすっかり動顛しているのは、膝がうちふるえ、くずおれそうに痙攣していることからも察せられた。そして、ついには両掌を合わせて哀願の仕種さえしていた。
 引金の指がゆっくりと絞られていった。向こうから爆発音だけが甲高く轟き、早彦の鼻先の厚い窓ガラスがキーンという音をたてて激しく顫動していた。ゆっくりとふるえるガラスを通して、空中に絵具を塗りつけたように鮮血が漂い、その血の烟にからみつかれながら、指や腕、顔面の付属物がまるで塵埃のようにまぜこぜになって浮游した状態で、一切が無限の静止をしつづけているように見えた。その中に取り残された胴体が、硬直した右足の踵を軸に独楽のようにくるくる回転し、それは夕陽の赤い色彩に染まって飛び立つ鳥類の姿を想像させた。冬の深夜に見た、手術台上で凍りついたあの白蝋のような死体よりも、いっそう美しい光景が展開されている、早彦は目を凝らしていた。夕刻の光を浴びているためか、それともガラスの向こうに迸る血の飛沫のためか、早彦の顔が紅蓮の炎に包まれていた。
 拳銃が暴発し、脆くも炸裂して、自転車泥棒の右手と顔の半分が吹き飛んだのだ。倒れ込んだ男は爬虫類のように床の上でのたうっていた。けれどもそれも寸秒のことで、打ち寄せる波のように溢れ出た暗い血の海の中ですぐに動きを止めてしまった。
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